2020年7月20日月曜日

最終兵器の目 用明天皇3

  『日本書紀』慶長版は

二年夏四月乙巳朔丙午御新嘗於磐余河上是日天皇得病還入於宮群臣侍焉天皇詔群臣曰朕思欲帰三寶卿等議之群臣入朝而議物部守屋大連與中臣勝海連違詔議曰何背國神敬他神也由來不識若斯事矣蘇我馬子宿祢大臣曰可隨詔而奉助詎生異計於是皇弟皇子引豊國法師入於內裏物部守屋大連耶睨大怒是時押坂部史毛屎急來密語大連曰今群臣圖卿復將斷路大連聞之即退於阿都集聚人焉中臣勝海連於家集衆隨助大連遂作太子彥人皇子像與竹田皇子像厭之俄而知事難濟歸附彥人皇子水派宮舍人迹見赤檮伺勝海連自彥人皇子所退拔刀而殺大連從阿都家使物部八坂大市造小坂漆部造兄謂馬子大臣曰吾聞群臣謀我我故退焉馬子大臣乃使土師八嶋連於大伴毗羅夫連所具述大連之語由是毗羅夫連手執弓箭皮楯就槻曲家不離晝夜守護大臣天皇之瘡轉盛將欲終時鞍部多湏奈進而奏曰臣奉爲天皇出家修道又奉造丈六佛像及寺天皇爲之悲慟今南淵坂田寺木丈六佛像挾侍菩薩是也癸丑天皇崩于大殿七月甲戌朔甲午葬于磐余池上陵

【二年の夏四月の朔が乙巳の丙午の日に、磐余の河上で御新嘗を行った。この日に、天皇は、病気になり宮へ帰った。群臣が傍に仕えていた。天皇は、群臣に「私は、仏に帰依しようと思う。

お前たち相談しろ」と詔勅した。群臣は、朝廷に参内して相談した。物部の守屋の大連と中臣の勝海の連と、詔勅の考えに背いて、「どうして国神に背いて、他神を敬うのか。経緯も解らず、どうしてこんなことになる」と言った。蘇我の馬子の宿禰の大臣は、「詔勅に従ってお助けしましょう。

誰か妙案を出せ」と言った。そこで、天皇の弟の皇子は、豊国の法師を連れて、内裏に入った。

物部の守屋の大連は、睨みつけて大変怒った。この時に、押坂部の史の毛屎が、慌ただしくやって来て、大連に「今、群臣は、あなたを、謀って退路を断とうとしています」とひそひそ話をした。

大連はそれを聞いて、すぐに阿都に退いて、人を集めた。中臣の勝海の連は、家に軍隊を集めて、大連の援軍となった。とうとう太子の彦人の皇子の呪いの像と竹田の皇子の呪いの像を作ってお祓いした。しばらくしても成功しないことを知って、帰って、彦人皇子がいる水派の宮で様子を伺った。舍人の迹見の赤梼は、勝海の連が彦人の皇子の所から退くところを伺って、刀を拔いて殺した。大連は、阿都の家から、物部の八坂と大市の造の小坂と漆部の造の兄を使者にして、

馬子の大臣に「私は、群臣が私に謀反したと聞いた。私は、それで引退する」と言った。馬子の大臣は、それで土師の八嶋の連を大伴の毗羅夫の連の所へ使者として行かせて、詳しく大連の言葉を述べた。それで、毗羅夫の連は、手に弓箭と皮の楯を持って槻曲の家に赴いて、昼夜離れずに大臣を守った。天皇のハレモノがどんどんひどくなり、死のうかという時に、鞍部の多須奈が進み出て「私は、天皇の為に、出家して道義をおさめたい。また丈六の佛像と寺を建立したい」と奏上した。天皇の為に、悲しみなげいて大声で泣いた。今、南淵の坂田の寺の木造の丈六の佛像と両脇の菩薩がこれだ。癸丑の日に、天皇は、正殿で崩じた。秋七月の朔が甲戌の甲午の日に、磐余の池上の陵に葬った。】とあり、標準陰暦と合致する。

この頃になると、金石文が多数現れて、実際の事件発生年が解ってくるが、『日本書紀』や『舊事本紀』の干支は多くが私の標準陰暦の計算通り若しくは大の月の指定に由来する誤差がほとんどで、用明天皇が実際は敏達天皇と崇峻天皇の記事の一部にも拘らず堂々と記述されている。

これは、何度も述べるように、『日本書紀』や『舊事本紀』も『古事記』と同じように紀伝体の資料であり、本来は干支などほとんど記述されていなかったものを、首都宿殿の記録が紀元前600年以前から延々と引き継がれて日記のような記録が既に有ったのである。

そして、その都の記録に、それぞれの王朝の王の記録を考えられるところにおさめていった記録が、今我々が見ている『日本書紀』や『舊事本紀』で、天皇名は最初に『日本書紀』を書かせた雄略天皇の先祖の役職名の歴史が記述され、皇后や妃や皇子を含めた何人かの王の妻(母系の為妻が本来の王と見做すべきだろう)とその子供たちが記述された。

そして、雄略天皇から仁賢天皇までは『古事記』が書かれたため、巨勢氏の家系の役職名が雄略天皇から当て嵌められ恐らく継体天皇までが巨勢氏の名前で、それ以降は推古天皇や馬子が書かせているため、蘇我氏の役職名が記述されている。

従って、用明天皇の記事は豊御食炊屋姫を皇后とする物部目天皇が用明天皇即位前紀「宮於磐余名曰池邊雙槻宮」と皇后の邸宅に移ったことを示し、それが686年だったことを示していて、橘豊日の馬子とは無縁の話で、623年に豊御食炊屋姫尊が皇后になった、すなわち、その夫のが天皇になったことを示し、稲目の姫の邸宅が宮すなわち首都になったことが解る。

崇峻天皇が在位した5年後が推古36年で翌年宮が変わって、政権も完全に豊御食炊屋姫王朝に変わり、馬子が皇太子で摂政となって626年推古天皇三四年に「大臣薨仍葬于桃原墓」と摂政馬子が崩じ、2代目馬子の「廐戸皇子豐耳聰」が摂政を継続した。

そして、629年に倭国王朝が正式に始まり推古天皇の在位期間の36年後は、私が664年の6月が乙巳の変と証明したその年である。

だから、押坂で生まれた皇太子彦人も豊御食炊屋姫宮の姫「立豐御食炊屋姫尊爲皇后是生二男五女・・・其三曰小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と小墾田皇女のいる水派に婿入りし、皇太子彦人は敏達天皇の死亡時はまだ成人しておらず、物部倭古に政権を奪われ、守屋が皇太子である大臣となったが、推古天皇と馬子が書かせた『日本書紀』は倭古天皇おそらく倭古を襲名した穴穗部皇子を天皇と認めず、義理の兄弟で皇太子の守屋も大臣と記述しなかった。

『二中歴』や『隅田八幡神社人物画像鏡』・『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』・『上宮聖徳法王帝説』を史書と比較することで、『日本書紀』を入鹿が記述する時に『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の俀国王を推古天皇の中に記述し、『日本書紀』と『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』を参考に『上宮聖徳法王帝説』が完成されたことが解り、『舊事本紀』が7世紀初頭に完成した時、『日本書紀』の天智天皇までを基に変更したことが解る。

その為、これらが記述されるときまだ記述されていない668年作成の『船王後墓誌』と全く合致しないのである。

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