2020年7月29日水曜日

最終兵器の目  崇峻天皇4

  『日本書紀』慶長版は

四年夏四月壬子朔甲子葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也秋八月庚戌朔天皇詔群臣曰朕思欲建任那卿等何如群臣奏言可建任那官家皆同陛下所詔冬十二月巳卯朔壬午差紀男麻呂宿祢巨勢臣比良夫狭臣大伴囓連葛城烏奈良臣爲大將軍率氏氏臣連爲裨將部隊領二万餘軍出居筑紫遣吉士金於新羅遣吉士木蓮子於任那問任那事五年冬十月癸酉朔丙子有獻山猪天皇指猪詔曰何時如斷此猪之頸斷朕所嫌之人多設兵仗有異於常壬午蘇我馬子宿祢聞天皇所詔恐嫌於已招聚儻者謀弑天皇是月起大法興寺佛堂與步廊十一月癸卯朔乙已馬子宿祢詐於群臣曰今日進東國之調乃使東漢直駒弑于天皇是日葬天皇于倉梯岡陵丁未遣驛使於筑紫將軍所曰依於內亂莫怠外事是月東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻馬子宿祢忽不知河上娘爲駒所偸而謂死去駒姧嬪事顯爲大臣所殺

【四年の夏四月の朔が壬子の甲子の日に、譯語田天皇を磯長の陵に葬った。これは亡き母の皇后を葬った陵だ。秋八月の庚戌が朔の日に、天皇は、群臣に「私は、任那を建てようと思う。お前たちはどう思う」と詔勅した。群臣は「任那の官家を建てなければならないのは皆も陛下の詔勅と同じ思いです」と奏上した。冬十一月の朔が己卯の壬午の日に、紀の男麻呂の宿禰と巨勢の猿の臣と大伴の囓の連と葛城の烏奈良の臣を大將軍に指名した。夫々の臣連を率いて、補助の将軍や部隊として、二萬余の軍を率いて、筑紫に出向いて停泊した。吉士の金を新羅に派遣、吉士の木蓮子を任那に派遣して、任那の事情を調べさせた。五年の冬十月の朔が癸酉の丙子の日に、猪を献上された。天皇は、猪を指さして「いつかこの猪の頚を斬り落とすように、私が嫌いな人も」と詔勅して、いつもよりいやに多く武器を準備した。壬午の日に、蘇我の馬子の宿禰が、天皇の詔勅を聞いて、自分を嫌っていることを恐れた。中間を呼び集めて天皇を殺害しようと計画した。この月に、大法興寺の佛堂と回廊が建った。十一月の朔が癸卯の乙巳の日に、馬子の宿禰は、「今日、東国の年貢を献上する」と群臣をだました。それで東の漢の直の駒に、天皇を殺害させた。この日に、天皇を倉梯の岡の陵に葬った。丁未の日に、急行の使者を筑紫の將軍の所に派遣して、「内乱ごときで、役割を怠ってはいけない」といった。この月に、東の漢の直の駒が蘇我の妃の河上娘を密かに盗んで妻とした。馬子の宿禰は、知らない間に河上娘が、駒にぬすまれたことを知らずに、死んだと思っていたが、駒が妃と夫婦になったことが露見したので、大臣に殺された。】とあり、標準陰暦と合致する。

この4年記事は敏達13年記事で、敏達天皇14年に崩じた敏達天皇の父で敏達天皇14年に崩じるまだ即位していない皇太子だから亡き母の陵、目の前の亡き天皇の妻皇后の陵に埋葬したと記述している。

敏達天皇十三年「遣難波吉士木蓮子使於新羅。遂之任那」、敏達天皇十四年の「天皇思建任那」と同じ内容で尼の善信も敏達14年に記述され、さらに、馬子は百済と同盟していて新羅とは没交渉で、新羅と同盟しているのは俀国である。

そして、崇峻天皇の暗殺記事も実際は穴穗部皇子の説話の可能性もあるが、この、崇峻天皇で馬子や推古天皇が書いた部分が終わり、次からは記述者が変わるが、推古天皇の内容の中には、秦王国の内容がちりばめられている。

ここで、疑問なのだが、どうして、推古天皇たちは628年まで記述しなかったかと言うことである。

この項で見たように、敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇は欽明天皇の内容をそれぞれ焼き直し、すなわち、同じ事件を別の王を中心に記述しているようにしか見られないのである。

それは、593年以前の干支と628年までの資料と対応できていないことを示していて、この頃の『日本書紀』は『古事記』と同じで完全な紀伝体の史書だったことを示し、恐らく完成させた720の完成時に当てはめた可能性があり、最初にその手法を取ったのが、『舊事本紀』で推古天皇の記述に矛盾があっても気にしておらず、『舊事本紀』「十七世孫物部連公麻侶馬古連公之子此連公淨御原朝御世天下万姓改定八色之」と淨御原朝まで記述しているのでこの頃記述されている。

当然、計算で内容に干支は当て嵌められないので、宮の資料に朔日の干支が延々と記述されていたものに、ある王の年干支と朔は記述されないけれど、王の在位年数と春夏秋冬の季節と日干支が記された『日本書紀』の原本があり、季節と日干支が解れば朔の日干支に合わせた干支にはめ込めばよいのだ。

『史記』の周本紀の武王發の項には「十一年十二月戊午師畢渡盟津諸侯咸會・・・二月甲子昧爽武王朝至于商郊牧野」と記述され、周時代からこのような記録が残っていたのであり、『尚書』の堯典に「帝曰咨汝羲暨和朞三百有六旬有六日以閏月定四時成歳」と義和が暦を堯に教え、義和は『山海經』の「大荒南經」に「東南海之外甘水之間有羲和之國」と日本の関東らしき場所に住んでいた義和が教えたのである。

だから、周と同じ暦の知識が有り得て『二中』に紀元前53年から刻木で元号公布が始まったと記述され、墨と竹ではなく違う方法、結縄刻木という方法で残され、木に刻んだ文字は『室見川銘版』に刻まれた篆書で、その木片を縄で結んだ、中国の竹簡をまねた、竹は帰化植物でいつ日本に入ったかわからないが、竹は有ったとしても刻みにくいので木片を使ったのだろう

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