2020年7月15日水曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第二十一  用明天皇1

 『日本書紀』慶長版は

橘豊日天皇天國排開廣庭天皇第四子也母曰堅塩媛天皇信佛法尊神道十四年秋八月渟中倉太珠敷天皇崩九月甲寅朔戊午天皇即天皇位舘於磐余名曰池邊雙槻宮以蘇我馬子宿祢爲大臣物部弓削守屋連爲大連並如故壬申詔曰云云以酢香手姫皇女拜伊勢神宮奉日神祀元年春正月壬子朔立穴穗部間人皇女爲皇后是生四男其一曰廐戸皇子此之皇子初居上宮後移斑鳩於豊御食炊屋姫天皇世位居東宮捴攝萬機行天皇事語見豊御食炊屋姫天皇紀其二曰來目皇子其三曰殖栗皇子其四曰茨田皇子立蘇我大臣稻目宿祢女石寸名爲嬪是生田目皇子葛城直磐村女廣子生一男一女男曰麻呂子皇子此當麻公之先也女曰酢香手姫皇女歷三代以奉日神

【橘豐日天皇は、天國排開廣庭天皇の第四子だ。母を堅鹽媛という。天皇は、佛法を信じて神道も尊んだ。十四年の秋八月に、渟中倉太珠敷天皇が崩じた。九月の朔が甲寅の戊午の日に、天皇は、即位した。磐余に宮を造った。名付けて池の邊の雙槻の宮と言った。蘇我の馬子の宿禰を大臣とし、物部の弓削の守屋の連を大連とし、共に前のとおりだ。壬申の日に、云々と詔勅した。酢香手姫の皇女を、伊勢の神の宮を礼拝して、日の神を祀って仕えるようにした。この皇女は、この天皇の時から、炊屋姫天皇の時代まで、日の神を祀って仕え、自分で葛城に引退して薨じた。炊屋姫の天皇の紀に見える。元年の春正月の壬子が朔の日に、穴穗部の間人の皇女を立てて皇后とした。皇后は四人の男子を生んだ。一人目を廐戸の皇子という。この皇子は、はじめ上宮に住んでいた。後に斑鳩に移った。豊の御食炊屋姫の天皇の時に、東宮の位についた。帝王の政務をすべてを統治して、天皇の仕事をこなした。この事は豊の御食炊屋姫の天皇の紀に見える。二人目を来目の皇子という。三人目を殖栗の皇子という。四人目を茨田の皇子という。蘇我の大臣の稻目の宿禰の娘の石寸名を下位の妃にした。田目の皇子を生んだ。葛城の直の磐村の娘の廣子は、一人の男子と一人の女子を生んだ。男を麻呂子の皇子という。この皇子は當麻の公の先祖だ。女を酢香手姫の皇女という。三代に跨って日の神に仕えた。】とあり、標準陰暦と合致する。

欽明天皇は32年間も皇位にありながら、欽明天皇三一年「四月甲申朔乙酉・・・朕承帝業若干年」、欽明天皇三二年「是月天皇遂崩于內寢時年若干」と即位31年に即位後若干や即位後32年に崩じて年若干と用明天皇の記述そのもので、敏達天皇の死も敏達天皇十四年「天皇與大連卒患於瘡」、「秋八月乙酉朔己亥天皇病彌留崩于大殿」と敏達天皇の死因が瘡である。

『舊事本紀』の敏達天皇紀に「五年春三月已卯朔戊子有司請立皇后詔立豐御食炊屋姬尊立為皇后」と敏達5年に皇后になったと記述され、推古天皇紀に「年十八渟中倉太玉敷天皇立爲皇后」とその時18歳だったと記述され、同じく 推古天皇紀に「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩卅九年當于泊瀨部天皇五年十一月天皇為」と34歳の時敏達天皇が崩じ、5年後天皇に即位して、『日本書紀』と同様に用明天皇が含まれず、『日本書紀』は『舊事本紀』をもとに記述している。

『舊事本紀』の敏達5年が576年なら、敏達天皇崩が592年で、推古天皇即位が597年になり、用明天皇が592年に崩じた敏達天皇ということになり、廐戸皇子は崇峻元年に「秋七月・・・是時廐戸皇子束髮於額而隨軍後」と13歳になって初めて参戦していて、用明天皇の皇太子には13歳未満でなれなかったので、甥の彦人が皇太子で義兄弟の穴穗部皇子が皇位を奪おうとした。

この闘いの前の「四月・・・歸附彦人皇子於水派宮」と前年に『隅田八幡神社人物画像鏡』の「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻」と彦人が水派宮に行く前の忍坂宮にまだいる時に竹田皇子に鏡を送り、その年が563年では欽明天皇時で意味不明になり、623年だったということで、この年に仁王年号が始まりおそらく皇太后が変わったことを示し634年までは少なくとも皇太后が変わっていない。

酢香手姫の斎王職の「或本云、卅七年間」は用明元年586年から622年までを述べたもので、推古天皇の時にこの記述をしているので、推古朝は含まれず、三代は欽明・敏達・用明のことなのだろう。

すなわち、穴穗部間人皇后が推古天皇で『舊事本紀』に「奉齋神宮弓削連祖倭古連女子阿佐姫次加波流姫各兄生四兒」と子が4人で「穴穗部間人皇女爲皇后是生四男」と合致し、父が弓削の祖なのだから、「弟物部守屋大連公子日弓削大連」と姉妹の夫の()兄弟に守屋弓削がいる。

『舊事本紀』に「妹物部連公布都姫夫人字御井夫人亦云石上夫人此夫人倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人」と守屋の妹の御井夫人が崇峻天皇の夫人となっているが、守屋の妹は馬子の夫人なのだから、崇峻天皇は馬子ということになり、馬子の長男嶋が皇太子馬子大臣を襲名したのだろう。

御井夫人は後に『舊事本紀』「弟娣生物部石上贄古連公此連公異母妹御井夫人爲妻生四兒小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」と贄子の夫人になりもう一人の崇峻天皇で欽明天皇三一年三月の「蘇我大臣稻目宿禰薨」は崇峻4年のことで四年夏四月「葬譯語田天皇於磯長陵」と敏達天皇を埋葬しており、推古朝の正式な太子が物部石上贄古の子、そして、俀国の上宮法皇の少なくとも3名が推古天皇の太子として記述され、推古天皇まで記述した『古事記』には「日子人太子」、「崗本宮治天下之天皇」は記述されるが「上宮之厩戸豊聡耳命」と上宮皇子に過ぎない

そして、2代目馬子は崇峻天皇が死んだ時も20歳に達していないので、天皇になれずに皇太子のまま義母の推古天皇の摂政に就任して、すなわち、聖徳太子は馬子で厩戸で生まれたから馬子、豊国の皇子だから「豐聰耳」で用明天皇とされる人物も豊日で豊国の王で、豊御食炊屋姫も豊国の姫である。

そして、敏達天皇五年「豐御食炊屋姫尊爲皇后是生二男五女其一曰菟道貝鮹皇女是嫁於東宮聖徳」、敏達天皇七年「菟道皇女侍伊勢祠即奸池邊皇子」と用明天皇「豐聰耳」は男性と関係を持ってはいけない斎王と関係をもって、聖人とは思えない。

廣國押武金日・武小廣國押盾・天國排開廣庭と朝廷内では下位の身分だった蘇我氏の人々は、渟中倉太珠敷・橘豐日と天皇家と姻戚になったことで名前の様相が変わり、泊瀬部・額田部は部民を任された王で、少なくとも『舊事本紀』に「大別連公為皇子代后號為氏使為氏造改賜矢田部連公姓」と前天皇が退位して与えられた部が付加された姓で大王クラスの名前、だから 泊瀬部・額田部大王が天皇になった。

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