2020年7月6日月曜日

最終兵器の目 敏達天皇 4

  『日本書紀』慶長版は

六年春二月甲辰朔詔置日祀部私部夏五月癸酉朔丁丑遣大別王與小黒吉士宰於百濟國冬十一月庚午朔百濟國王付還使大別王等獻經論若干卷幷律師禪師比丘尼呪禁師造佛工造寺工六人遂安置難波大別王寺七年春三月戊辰朔壬申以菟道皇女侍伊勢祠即姧池邊皇子事顯而解八年冬十月新羅遣枳叱政奈末進調幷送佛像九年夏六月新羅遣安刀奈末失消奈末進調不納以還之十年春潤二月蝦夷數千冦於邊境由是召其魁帥綾糟等詔曰惟伱蝦夷者大足彥天皇之世合殺者斬應原者赦今朕遵彼前例欲誅元惡於是綾糟等懼然恐懼乃下泊瀬中流面三諸岳漱水而盟曰臣等蝦夷自今以後子子孫孫用清明心事奉天闕臣等若違盟者天地諸神及天皇靈絶滅臣種矣十一年冬十月新羅遣安刀奈末失消奈末進調不納以還之

六年の春二月の甲辰が朔の日に、詔勅で日祀部と私部を置いた。夏五月の朔が癸酉の丁丑の日に、大別の王と小黒の吉士とを派遣して、百済国に対する責任者とした。冬十一月の庚午が朔の日に、百済の国王が、帰ろうとする使者の大別王達と一緒に、経論の巻物を若干と、あわせて高位の僧と禅師と尼僧と祈祷師と仏師と宮大工の六人を献上した。それで難波の大別王の寺に居住させた。七年の春三月の朔が戊辰の壬申の日に、菟道の皇女を、伊勢の祠につかえた。それで池邊の皇子に姦淫された。この事が露見して解任された。八年の冬十月に、新羅が、枳叱政奈末を派遣して年貢を献上して、一緒に佛像を送った。九年の夏六月に、新羅が、安刀奈末と失消奈末を派遣して年貢を献上したが納めないで帰った。十年の春潤二月に、蝦夷が数千人が国境を侵略した。このため、その賊の頭の綾糟達を呼んで、「思うに、お前たち蝦夷を、大足彦天皇の時代に、殺さなければならない者は斬り、許される罪があった者は赦免した。今、私は、その前の例に倣って、悪者のかしらを誅殺する」と詔勅した。そこで綾糟達は、恐れおののいてかしこまって、それで浅瀬の流れの早い所に留まって、三諸の岳に向かって、水をすすって「私達蝦夷は、今より後、子子孫孫、清く明らかな気持ちで宮門に奉仕します。私達が、もし約束を破たら、天地の諸々の神や天皇の先祖の霊が、私の子孫を絶滅することでしょう」と誓った。十一年の冬十月に、新羅が、安刀奈末と失消奈末を派遣して、年貢を献上したが受け取らないで返した。】とあり、標準陰暦と合致する。

難波大別王が寺と経や僧侶が来るのが解っていて、前もって寺を用意することは有り得ず、既に大別王の宮には寺が建立されていて、これは欽明天皇十三年の「有司乃以佛像流弃難波堀江復縱火於伽藍燒燼更無餘」と百済から送られた仏像を稲目が受け取って、安置した寺も難波だったが焼けていて、それとは別に寺があったことを示している。

大別王は『舊事本紀』に仁徳天皇「八十二年春二月乙巳朔詔侍臣物部大別連公曰皇后久經數年不生皇子以尓大別定皇子代后號為氏以為氏造改賜矢田部連公姓八十三年歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」と矢田部連公と公すなわち君・王で大別は仁徳天皇大別だったと記述している。

公は『日本書紀』の初出が景行天皇二七年の「美濃國有善射者曰弟彦公於是日本武尊遣葛城人宮戸彦喚弟彦公故弟彦公便率石占横立」で弟彦公は尾張王朝の天皇で、次が雄略天皇九年「從軍覓出問曰吾主大伴公何處在也」と圓王朝を倒した人物その人で、実質平群・巨勢王朝の後ろ盾であった。

その大別を襲名した人物の矢田部連大別公が百済に使者として百済に派遣され、百済にとっては主筋の王がわざわざやってきたのであるから、今までの献上品で個別に送った献上品と違い破格だったのであり、その王の宮の中に寺が有るから経典や高僧や仏師を献上したのだろう。

『三国史記』600年眞平王二十二年「高僧圓光隨朝聘使奈麻諸文」、604年二十六年「秋七月 遣使大奈麻萬世・惠文等朝隋」と遣使の役人が「奈麻」と対応する使者がやってきたが追い返していて、577年の大別の百済派遣で百済と盟約が出来て、『三国史記』577年眞智王二年冬十月に「百濟侵西邊州郡」、威德王二十四年冬十月「侵新羅西邊州郡新羅伊飡世宗 帥兵擊破」、579年眞平王二十二年に「春二月百濟築熊峴城松述城以梗䔉山城麻知峴城內利西城之路」と 百済が新羅を攻撃し、10月に新羅が仏像を献上しにやってきたが、百済の攻勢で蘇我日本も強く出たのだろう。

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