2020年6月3日水曜日

最終兵器の目 欽明天皇 9

  『日本書紀』慶長版は

十年夏六月乙酉朔辛卯將德久貴固德馬次文等請罷歸因詔曰延那斯麻都陰私遣使髙麗者朕當遣問虛實所乞軍者依願停之十一年春二月辛巳朔庚寅遣使詔于百濟曰朕依將(施)德久(文)貴固德馬進文等所上表意一一教示如視掌中思欲具情冀將盡抱大市頭歸後如常無異今但欲審報辭故遣使之又復聞奈卒馬武是王之股肱臣也納上傳下甚協王心而爲王佐若欲國家無事長作官家永奉天皇宜以馬武爲大使遣朝而已重詔曰朕聞北敵強暴故賜矢三十具庶防一處夏四月庚辰朔在百濟日本王人方欲還之百濟王聖明謂王人曰任那之事奉勅堅守延那斯麻都之事問與不問唯從勅之因獻髙麗奴六口別贈王人奴一口乙未百濟遣中部奈卒皮久斤下部也德灼干那等獻?()虜十口十二年春三月以麥種一千斛賜百濟王是歲百濟聖明王親卒衆及二國兵往伐髙麗獲漢城之地又進軍討平壤凡六郡之地復故地十三年夏四月箭田珠勝大兄皇子薨五月戊辰朔乙亥百濟加羅安羅遣中部德卒木?(刕)今敦河內部阿斯比多等奏曰髙麗與新羅通和幷勢謀滅臣國與任那故謹求請救兵先攻不意軍之多少隨天皇勅詔曰今百濟王安羅王加羅王與日本府臣等倶遣使奏狀聞訖亦宜共任那幷心一力猶尚若茲必蒙上天擁護之福亦頼可畏天皇之靈也

【十年の夏六月の朔が乙酉の辛卯の日に、將徳の久貴と固徳の馬次文達が、帰らせて欲しいと願った。それで「延那斯と麻都が、隠れて自分の使者を高麗に派遣したのが、嘘か本当かを問いただすために使者を派遣しようと思う。願い出た軍は願いどうり止めた」と詔勅した。十一年の春二月の朔が辛巳の庚寅の日に、使者を派遣して百済に「私は、將徳の久貴と固徳の馬進文達の上表した意味から、いちいちことこまかに、示して教るのは、てのひらの中を凝視するようだ。情報を詳しくしてほしい。たのむから思っていることを全て明らかにしてほしい。大市頭が帰った後、いつも通り何事も無かった。今はただはっきりと見分けられる報告をしてほしい。だから使者を派遣した。私は何度も聞いたが、奈卒の馬武は、王の一番頼みとする部下だ。王に情報を入れ部下に命令を伝えるのに、王の気持ちを察して、王を助ける。もし国家に何事もなく、長い間、官家を作り、永く天皇に奉公しようと思ったら、馬武を大使として、朝廷に派遣しなさい」と詔勅した。重ねて「私は聞いたのだが、北の敵は強暴だ。それでに矢を三十具を与えた。なんとか一か所でも防いでくれ」と詔勅した。夏四月の庚辰が朔の日に、百済に居る日本の王の使いが、帰ろうとした。百済の王の聖明が、日本の王の人に「任那の事は、詔勅を守って絶対守る。延那斯と麻都の事は、問おうとも問わなくとも、ただ詔勅のとうりにする」と言った。それで高麗の下部六人を献上した。それとは別に王の使いに下部を一人贈った。乙未の日に、百済は、中部の奈卒の皮久斤と下部の施徳の灼干那達を派遣して、狛の捕虜十人を献上した。十二年の春三月に、麦の種千斛を、百済の王に与えた。この歳に、百済の聖明王が、自ら民衆と二国の軍隊を率いて、出かけていって高麗を討伐して、漢城の土地を獲た。また軍を進めて平壤を討った。すべて六郡の土地を、元の地に返した。十三年の夏四月に、箭田の珠勝の大兄の皇子が薨じた。五月の朔が戊辰の乙亥の日に、百済と加羅と安羅が、中部の徳卒の木刕今敦と河内部の阿斯比多達を派遣して「高麗と新羅と同盟して勢力を併せて、私の国と任那とを滅ぼそうとしている。それで、つつしんで救助軍を願い求めて、まず不意に攻めるので、軍の多少は、天皇の詔勅どうりに」と奏上した。「今、百済の王と安羅の王と加羅の王が、日本府の臣下達と、ともに使者を派遣して奏上する様子を聞いた。また任那とともに、心をあわせ、力を一つにしなさい。そうすればきっと、天神がかばって守って幸せにしてくれて、また尊い天皇の先祖を頼るべきだ」と詔勅した。】とあり、四月庚辰朔は3月30日で3月が小の月ならそれ以外は標準陰暦と合致する。

ここに記述される官位の将徳若しくは施徳や固徳はまさにこの時代の内容を636年貞観10年に完成した『周書』に「百濟者・・・官有十六品左平五人一品達率三十人二品恩率三品德率四品扞率五品柰率六品六品已上冠飾銀華將德七品紫帶施德八品皂帶固德九品赤帶季德十品青帶對德十一品文督十二品皆黃帶武督十三品佐軍十四品振武十五品克虞十六品皆白帶自恩率以下」と記述され『日本書紀』と内容と全く同じである。

年貢を治めに来た新羅の使者の地位を良く知らなかった畿内政権に対し、俀国の資料が用いられた部分は『周書』と合致するのであるが、『日本書紀』で百済は殊勝に天皇に臣従しているように見せているが、『三国史記』の525年聖王三年「春二月與新羅交聘」のように新羅と和を結び、聖王二十六年548年にも「春正月高句麗王平成與濊謀攻漢北獨山城王遣使請救於新羅羅王命將軍朱珍領甲卒三千發之朱珍日夜兼程至獨山城下與麗兵一戰大破之」のように新羅に助けてもらっている。

この戦いで得た高句麗の捕虜を下部として扱っているのがこの記事で、『三国史記』の陽原王四年「春正月以兵六千攻百濟獨山城新羅將軍朱珍來援故不克而退」と高句麗側にも記述されている。

そして、551年の十二年記事は『三国史記』の記事では550年に記述され、『三国史記』に陽原王六年「春正月百濟來侵陷道薩城三月攻百濟金城新羅人乘間取二城」、聖王二十八年春正月王遣將軍達已領兵一萬攻取高句麗道薩城三月 高句麗兵圍金峴城、眞興王十一年「春正月百濟拔高句麗道薩城三月高句麗陷百濟金峴城王乘兩國兵疲命伊飡異斯夫出兵擊之取二城增築留甲士一千戍之」と三国の記事が合致し、新羅が百済と示し合わせたように漁夫の利を得ている。

500年炤知麻立干二十二年「春三月倭人攻陷長峰鎭」以降、665年文武王五年「結託高句麗 交通倭國共爲殘暴侵削新羅」まで倭が記述されず、俀国と百済と新羅は裏で繋がっていて畿内政権に対抗していた可能性が有り、百済は蘇我氏の倭と組み俀国は新羅と組んで白村江で戦い新羅と俀国の天智天皇とが勝利した可能性が高い。

その証拠に、『日本書紀』667年天智天皇六年「以皇孫大田皇女葬於陵前之墓高麗百濟新羅皆奉哀於御路」以降友好関係であり、『三国史記』698年孝昭王七年「三月日本國使至王引見於崇禮殿」、『日本書紀』698年大化四年「是歳新羅遣使貢調」と合致する。

大化四年記事が648年に挿入されているが、乙巳の変や大化記事は元正天皇が書かせていて、648年の『三国史記』と合致しないのだから、本来の大化4年に充てるべきだろう。

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