2020年6月19日金曜日

最終兵器の目 欽明天皇 16

 『日本書紀』慶長版は

二十二年新羅遣久禮叱及伐干貢調賦司賓饗遇禮數減常及伐干忿恨而罷是歲復遣奴氐大舍(陀嵯)獻前調賦於難波大郡次序諸蕃掌客額田部連葛城直等使列于百濟之下而引導大舍怒還不入館舍乗舩歸至穴門於是修治穴門館大舍問曰爲誰客造工匠河內馬飼首押勝欺紿曰遣問西方無禮使者之所停宿處也大舍還國告其所言故新羅築城於阿羅波斯山以?()日本二十三年春正月新羅打滅任那官家夏六月詔曰新羅西羌小醜逆天無狀違我恩義破我官家毒害我黎民誅殘我郡縣我氣長足姫尊靈聖聰明周行天下劬勞群庶饗育萬民哀新羅所窮見歸全新羅王將戮之首授新羅要害之地崇新羅非次之榮我氣長足姫尊於新羅何薄我百姓於新羅何怨而新羅長戟強弩凌戚任那距牙鈎爪殘虐含靈刳肝斮趾不厭其快曝骨焚屍不謂其酷任那族姓百姓以還窮刀極爼既屠且膾豈有卒土(国内)之賓謂爲王臣乍食人之禾飲人之水熟忍聞此而不憚心況乎太子大臣處趺蕚之親泣血銜寃寄當蕃屏之任摩頂至踵之恩世受前朝之德身當後代之位而不能瀝膽抽腸共誅姧逆雪天地之痛酷報君父之仇讎則死有恨臣子之道不成是月或有譖讃(?)馬飼首歌依曰歌依之妻逢臣讃岐鞍韉有異熟而熟視皇后御鞍也即收廷尉鞫問極切馬飼首歌依乃揚言誓曰虛也非實若是實者必被天灾遂因苦問伏地而死死未經時急灾於殿廷尉收縛其子守石與名瀬氷(守石名瀬氷皆名也)將投火中(投火爲刑蓋古之制也)咒曰非吾手投咒訖欲投火守石之母祈請曰投兒火裏天灾果臻請付祝人使作神奴乃依母請許沒神奴

二十二年に、新羅は、久禮叱の及伐干を派遣して、年貢を貢上した。客人の役人と面会してお辞儀の数がいつもより少なかった。及伐干は、腹を立てんで席を立って帰った。この歳に、また、奴氐大舍を派遣して、前回持って来た年貢を献上した。難波の大郡に、諸蕃の拝謁の順が、

掌客の額田部連・葛城と続き、百済より後に一緒に導き入れた。大舍は怒って帰った。館舍に入ら、船に乗ってに帰った。そこでは、穴門館を修繕していた。大舍が、「どの客のために造っているのか」と問いかけた。大工の棟梁の河内馬飼の首の押勝がいじめて「西の方面の無礼なことを問いかける派遣された使者が泊るところだ」とだました。大舍は、国に帰って、この話を告げた。それで、新羅は城を阿羅波斯山に築いて、日本に備えた。二十三年の春正月に、新羅は、任那の官家を撃ち滅ぼした。夏六月に、「新羅は西の野蛮人小さくて醜い。天に逆らい無作法だ。私の報いるべき義理を欠き、私の官家を破った。私の庶民を毒殺して、私の郡縣の民を傷つけ殺した。私国の氣長足姫の尊は、計り知れない王で判断力がすぐれて、天下の大道を進んで、人々のために苦労して働き、万民をもてなしはぐくんだ。新羅が困って帰るところを見て哀れんで、新羅の王の打ち首を止めて命を全うさせ、新羅に要害の地を授けて、新羅の繁栄がこれ以上ない高さになった。私の国の氣長足姫の尊に、新羅はどんな粗末な扱いをされたか。

私の百姓に、新羅は何の怨みがあるのか。それなのに新羅は、長い戟と強力な石弓は、任那の物を凌いで、長い牙や曲がった爪のようで、意識或るものにむごたらしい。内臓をえぐり、足を叩ききり、それに酔いしれて飽くことが無かった。骨を曝し屍を焼き、その酷さは任那の同族や百姓が帰るに帰れず俎板の上の刀で家畜をさばいたりなますにきざむようで言葉が無かった。国の果ての客人が、他人の稲を食べ、他人の水を飲みながら忍んでいる、これを聞いて心配しないでいられようか。まして、太子や大臣は、殿の縁続きで、血の涙を流し、濡れ衣を心にかみしめて身を寄せ、国の守りの役目にあたって、(孟子:盡心上・・摩頂於踵利天下為之子莫)頭の先から足のかかとまですり減らすほど、自分を顧みず、他人のために努力した。情け深い世は前の朝廷の人徳を受けて、あなたは後代の位になって、内臓に水を注ぎはらわたを抜き出して一緒に逆らいだました者を殺して、天地の酷く苦しい思いを拭い去り、父君の仇に報いなければ、家来や子の身分である者の道が達成できなければ、寿命が尽きて死ぬときの、最後の瞬間は恨みが有るだけだ」と詔勅した。この月に、ある人が、馬飼の首歌依を「歌依の妻が逢の臣の讚岐の鞍の下鞍にはおかしいところが有った。よくよく見たら、皇后の鞍だった」と中傷した。それですぐに捕えて廷尉(刑罰を司る官僚)に任せて、罪を問いただして極刑がピッタリとした。馬飼の首の歌依は、

それで「嘘だ。真実でない。もしこれが本当ならきっとばちが当たる」と大声で神仏に約束した。

拷問で首を差し出して死んだ。死後時を経ずすぐに御殿で火災が有った。廷尉はその子の守石と名瀬氷を捕縛して火の中に投げ込もうとした。「私の罰で投るのではなく呪ったからだ。」と神仏に祈った。祈り終わって火に投げようとした。守石の母は、「私の子を火の中に投るのは、誤審のばちが当たったからだ。お願いです。神職に付けて雑役になることで許してください」と祈り願った。それで母の願いどうりに神職の雑役にした。】とある。

新羅の王が大臣や太子と縁続きと言っているが、大臣が稲目としても、太子は敏達天皇で母石姫は宣化天皇の娘で、縁を述べるなら義理とはいえ兄弟や叔父甥で、血縁ではなにかぼけている。

石姫は名前から言えば、馬子や磐井と縁続きで、合わないわけではないが、前項まででも述べたように、欽明紀は倭国と俀国の説話を含む可能性が高く、ここでの天皇は稲目の可能性が高く、2代目稲目も馬子大臣も血縁で、安芸に朝廷があって、新羅に帰るのに穴門で船に乗るのはとても自然だ。

そして、神功皇后の新羅遠征は仲哀天皇二年「興宮室于穴門而居之是謂穴門豐浦宮」、神功皇后摂政元年「移于穴門豐浦宮即收天皇之喪」と穴門に宮があったと記述し、祖父の韓子が雄略天皇九年に「天皇欲親伐新羅・・・蘇我韓子宿禰」と新羅に出撃し、名前から韓地で生まれた可能性が高く、子が高麗とやはり韓地で生まれているようだ。

『広開土王碑文』の「而倭以辛卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」すなわち391年に神功皇后の征韓、390年(396)即位の応神天皇十四年403年(409)に「弓月君自百濟來歸」、405年(411)に応神天皇十六年「木菟宿禰等進精兵莅于新羅之境・・・乃率弓月之人夫與襲津彦共來焉」、「的戸田宿禰於加羅仍授精兵詔之曰襲津彦久之不還」と広開土王と同時代で、324年仁徳天皇十二年「的臣祖盾人宿禰」、「美盾人宿禰而賜名曰的戸田宿禰」と的臣も共に戦っている。

仁徳12年は実際はもっと後年、木菟宿禰と名前を取り換えたのだから、仁徳元年も390年頃と考えられ、的臣が賜姓されるのが雄略天皇の時と考えられので仁徳12年は402年頃で賜姓される前の的臣が広開土王と戦ったと考えられる。 

この頃に390年(396)即位の392年(398)応神天皇三年「是歳百濟辰斯王立之失禮・・・石川宿禰木菟宿禰紀角宿禰等便立阿花爲王而歸」と石川宿禰が韓地に滞在して帰った様子が無い。

的臣が韓地で中心的存在であって、蘇我氏が何も無しにいつの間にか大臣を名乗るというのは奇妙で、韓地で的臣以上の地位で倭国と共闘していた可能性が高く、その間に新羅と血縁になり、稲目が朝廷、長男が太子そして馬子大臣と関連付けられ、弓月君などは日本の氏姓で、関連するのかもしれない。


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