2020年6月22日月曜日

最終兵器の目 欽明天皇 17

  『日本書紀』慶長版は

秋七月巳巳朔新羅遣使獻調賦其使人知新羅滅任那恥背國恩不敢請罷遂留不歸本土例同國家百姓今河內國更荒郡鸕鷀野邑新羅人之先也是月遣大將軍紀男麻呂宿祢將兵出哆唎副將河邊臣瓊?(征・缶)出居曾山而欲問新羅攻任那之狀遂到任那以薦集部道(首)登弭遣於百濟約束軍計登弭仍宿妻家落印書弓箭於路新羅具知軍計卒起大兵尋属敗亡乞降歸附紀男麻呂宿祢取勝旋師入百濟營令軍中曰夫勝不忘敗安必慮危古之善教也今處疆畔豺狼交接而可輕忽不思變難哉況復平安之世刀剱不離於身蓋君子之武備不以巳冝深警戒務崇斯令士卒皆委心而服事焉河邊臣瓊?(征・缶)獨進轉鬪所向皆拔新羅更舉白旗投兵隆首河邊臣瓊?(征・缶)元不曉兵對舉白旗空示獨進新羅鬪將曰將軍河邊臣今欲降矣乃進軍逆戰盡鋭遄攻破之前鋒所破甚衆倭國造手彥自知難救棄軍遁逃新羅鬪將手持鈎戟追至城洫運戟擊之手彥因騎駿馬超渡城洫僅以身免鬪將臨城洫而歎曰久湏尼自利(此新羅語未詳也)於是河邊臣遂引兵退急營於野於是士卒盡相欺蔑莫有遵承鬪將自就營中悉生虜河邊臣瓊?(征・缶)等及其隨婦于時父子夫婦不能相恤鬪將問河邊臣曰汝命與婦孰與尤愛荅曰何愛一女以取禍乎如何不過命也遂許爲妾鬪將遂於露地姧其婦女婦女後還河邊臣欲就談之婦人甚以慚恨而不隨曰昔君輕賣妾身今何面目以相遇遂不肯言是婦人者坂本臣女曰甘美媛同時所虜調吉士伊企儺爲人勇烈終不降服新羅鬪將拔刀欲斬逼而脱褌追令以尻臀向日本大號叫曰日本將嚙我臗脽即号叫曰新羅王㗖我臗脽雖被苦逼尚如前叫由是見殺其子舅子亦抱其父而死伊企儺辭旨難奪皆如此由此特爲諸將帥所痛惜昔妻大葉子亦並見禽愴然而歌曰柯羅倶爾能基能陪伱陀致底於譜磨故幡比例甫囉湏母耶魔等陛武岐底或有和曰柯羅倶尓能基能陪伱陀陀志於譜磨故幡比禮甫羅湏?()喩那伱婆陛武岐底

秋七月の己巳が朔の日に、新羅は、使者を派遣して年貢を献上した。その使者は、新羅が、任那を滅ぼしたと知って、国から受けた恩に背いたことを恥じて、怖くて帰ると願わなかった。それで留って本国に帰らず、我が国の百姓と同じように過ごした。今の河内国の更荒の郡の鸕鷀野の邑の新羅人の先祖だ。この月に、大將軍の紀の男麻呂の宿禰を派遣して、軍を率いて哆唎を(?)出兵した。副將の河邊の臣の瓊缶は、居曾山に出兵した。それで新羅が、任那を攻めた状況を調べさせた。それで任那に着いて、薦集部の首の登弭を、百済に派遣して、軍略を約束した。

登弭は、そのあとで妻の家に泊ったが、約束通り、押印のある公文書と弓箭を路に落した。新羅は、詳しい軍略を知った。すぐに大軍を起兵したが、罠にはまって負けて逃げることが何度も続いて、降伏して従うことを求めた。紀の男麻呂の宿禰は、勝利を得て凱旋して、百済の陣営に入って「勝って兜の緒を締めて、平和な時こそ絶対に危機のことを忘れるなというのは、昔からの優れた教えだ。今居る所は境界でむごたらしい者と隣り合っている。それを簡単に疎かにして、苦しくなると思わないのはだめだ。まして、また平安な世の中でも刀や剣を離さない。だから君子の備えをやめてはならない。心から用心して、この掟を敬って努めなければならない」と全軍に命じた。兵士は皆、紀の臣の考えに従った。河邊の臣の瓊缶だけは、どんどん進軍して戦った。どこへ行っても連戦連勝だった。新羅は、またもや白旗を上げて、武器を投げ棄てて降伏したと見せかけた。首の河邊の臣の瓊缶は、もともと、軍のことを良く知らず、白旗を上げた者に対しても無駄に単独で進軍した。新羅の闘将が「將軍の河邊の臣は、今、投降しようとしている」と言った。

それで進軍して抗戦した。(武器を捨てていなかった?)早く先鋭に絶えず素早く最後まで攻めて破って、先鋒の兵が多く撃破された。倭の国造の手彦は、身が危ないと知り、軍を棄てて遁走した。新羅の闘将は、手に鉤がついた矛を持って、城の濠まで追ってきて、矛を振り回して撃った。手彦は、それで駿馬で駆けて、城の濠を跳び越して渡って、なんとか無事だった。闘将は、城の濠の向こうを見て、「久須尼自利(?自分が良ければいいのか)」と嘆いた。そこに、河邊の臣が、とうとう軍を引いて退き、急遽、野営をした。そこで、兵士が、みんな愛想を尽かして、命令に従わなかった。闘将自らが、野営の中に赴いて、河邊の臣の瓊缶達と瓊缶についてきている婦人も残らず殺さず捕虜にした。その時、父子夫婦みな離れ離れで抱き合って悲しむこともできなかった。闘将は、河邊の臣に「お前の命と妻とどちらが大事で惜しい」と問いかけた。「どうして一人の女ぐらいで自分の命を捨てられるか。なんと言っても命が一番大事だ」と答えた。それで瓊缶を許して妻を妾にした。闘将はそれで皆が見ている所で瓊缶の妻や娘を強姦した。妻や娘は後に帰った。河邊の臣は、妻子と話しに行った。妻は、とても恥ずかしめを受けたことを恨み、言いたい放題に「あの時あなたは、簡単に私の体を売った。今になってどの面下げて会いに来たか」と言った。とうとう返す言葉が無かった。この婦人は、坂本の臣の娘で、甘美媛と言う。同じ時に捕虜になった。調の吉士の伊企儺は、生まれつきいさましくて激しくして、とうとう降伏しなかった。新羅の闘将は、刀を抜いて斬ろうと迫り、褌を脱ぎ、追って尻を日本に向けて大声で、「日本の將軍よ、私の尻を噛め」と命じた。間髪を入れずに言い返して、「新羅の王よ、私の尻をついばめ」と叫んだ。苦しめようと迫って来てもまだ同じく叫んだため、その子の舅子を見殺しにして父と抱き合って死んだ。伊企儺の拒絶の叫びを止められず、皆もこのようにあるべきと、この一人の為に諸将は痛み惜しんだ。その妻の大葉子もまた一緒に、捕えられようとして、悲嘆にくれて歌った()とある人が同調して歌った()】とあり、標準陰暦と合致する。

任那の滅亡記事が『三国史記』眞興王二十三年の「秋七月百濟侵掠邊戶王出師拒之殺獲一千餘人九月加耶叛王命異斯夫討之斯多含副之斯多含領五千騎先馳・・・論功斯多含爲最王賞以良田及所虜二百口斯多含三讓王强之乃受其生口放爲良人田分與戰士國人美之」と記述し、大勝利で戦利品を大盤振る舞いしている。

それに対して日本側は密約で勝利を装い、無謀な将軍が敗北したと記述しているが、やはり、任那滅亡で負けた事実は隠せず、それに対して、『三国史記』564年眞興王二十五年に「遣使北齊朝貢」と初めて訪中して朝貢し、中国の援助が有った可能性が有る。

みじめな負け方をした、河邊臣も推古天皇二六年「遣河邊臣於安藝國令造舶」、推古天皇三一年に「小徳河邊臣禰受」とやはり稲目の領地で船を造って出世していて、蘇我氏の配下の可能性が高く、密約をしたのは蘇我氏ではなく俀国の側と推測でき、この後、新羅は698年孝昭王七年に「三月日本國使至王引見於崇禮殿」との記述まで無く、百済は608年武王九年「春三月遣使入隋朝貢隋文林郞裴淸奉使倭國經我國南路」と隋の倭使を通好させ、653年義慈王十三年「秋八月王與倭國通好」、そして白村江での共同戦線と推移し、蘇我氏倭国が百済、天氏(『隋書』「俀王姓阿毎字多利思北孤)俀国が新羅と関係を深めたようだ。

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