『日本書紀』慶長版は
「冬十月庚寅朔己酉百濟王子餘昌悉發國中兵向髙麗國築百合野塞眠食軍士是夕觀覽鉅野墳腴平原瀰迤人跡罕見犬聲蔑聞俄而儵忽之際聞鼓吹之聲餘昌乃大驚打鼓相應通夜固守凌晨起見曠野之中?(覆)如青山旌旗充滿會明有着頸鎧者一騎插鐃者(鐃字未詳)二騎珥狗(豹)尾者二騎幷五騎連轡到來問曰少兒等言於吾野中客人有在何得不迎禮也今欲早知與吾可以禮問荅者姓名年位餘昌對曰姓是同姓位是杆卒年二十九矣百濟反問亦如前法而對荅焉遂乃立標而合戰於是百濟以鉾刺墮髙麗勇士於馬斬首仍刺舉頭於鉾末還入示衆髙麗軍將憤怒益甚是時百濟歡?(呼)之聲可裂天地復其偏將打鼓疾鬪追却髙麗王於東聖山之上十五年春正月戊子朔甲午立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子丙申百濟遣中部木?(刕)施德文次前部施德曰佐分屋等於筑紫諮內臣佐伯連等曰德卒次酒杆卒塞敦等以去年閏月四日到來云臣等(臣等者謂內臣也)以今年正月到如此噵而未審來不也又軍數幾何願聞若干預治營壁別諮方聞奉可畏天皇之詔未詣筑紫看送賜軍聞之歡喜無能比者此年之役甚危於前願遣賜軍使逮正月於是內臣奉勅而荅報曰即令遣助軍數一千馬一百疋舩四十隻」
【冬十月の朔が庚寅の己酉の日に、百済の王子の餘昌(威徳王)が国中の全ての兵をあげて、高麗国に向って、百合野の要塞を築いて、軍士の中で寝食を共にした。この夕方に、じっと見ていると、椀状に盛り上がった野や平原が拡がり畝っていて、人影がめったに見られず、犬の声も聴くことが無かった。突然ほんの少しの間に、鼓や笛を吹く声が聞こえた。餘昌はそれで大変驚いて、鼓を打って対抗して一晩中固く守った。夜明けに起きて広野の中を見ると、木があおあおと茂った山の木のように、のぼりがいっぱいに広野にみちていた。朝日がさす頃に首や肩を守る鎧を着けた者が一騎とどらを挿した二騎と、犬の尾型の耳飾りをした者が二騎と、併せて五騎が、馬が首をそろえて並ばせてやって来て「小僧らが私に言ったが、『私の野の中に、客人がいる』と言った。どうして礼をもって迎えないではいられない。今願うのは、私と礼儀正しく問答できる者の姓名と年と位を早く教えろ」と問いかけた。餘昌が「姓は扶余王家と同じ姓で、位は杆卒で、年は二十九だ」と答えた。百済は、返答した。前と同じ方法で答えた。それで軍旗を建てて合戦した。ここで、百済は、鉾で高麗の勇士を馬から突き刺して落として首を斬った。それで頭を鉾の先端に刺し挙げて、陣営に帰って兵士に見せつけた。高麗の将軍は、怒り狂って益々勢いづいた。この時に、百済が喜び叫ぶ声が天地を突き抜けた。またその一方面隊の大將が、鼓を打って急襲して、高麗の王に東聖山の上に追われて退却した。十五年の春正月の朔が戊子の甲午の日に、皇子の渟中倉太珠敷尊を皇太子に立てた。丙申の日に、百済は、中部の木刕の施徳の文次と前部の施徳の曰佐分屋達を筑紫に派遣して、内の臣と佐伯の連達に「徳卒の次酒と杆卒の塞敦達が、去年の閏月四日にやって来て、『私達は、今年の正月に到着する』と言った。このように言ったがはっきりしない。来るか来ないか。また軍勢の数はどれだけか。できたら少し聞かせてもらって、あらかじめ陣地の柵を作っておきたい」と諮った。「丁度聞いたが、畏れ多い天皇の詔勅を聞いて、筑紫にやって来て、与えられた軍隊を見送ろうと聞いてこの上なく喜んだ。この年の戦は、以前の戦いよりとても危ない。出来たら頂いた軍隊を派遣して、正月に間に合わせて下さい」と別に諮った。そこで、内の臣は、詔勅を聞いて「それで援軍の数は千人と馬を百匹と船を四十隻を派遣させる」と答を報告した。】とあり、標準陰暦と合致する。
この、554年に立太子したというのは、当然、『舊事本紀』の「物部金連公野間連借馬連等祖目大連之子」と物部金や「孫物部馬古連公目大連之子」と物部馬古なのではなく、物部目の兄弟の「孫物部荒山連公目大連之子・・・物部尾輿連公荒山太連之子・・・物部大市御狩連公尾輿大連之子・・・弟贄子大連・・・弟物部守屋大連公」と物部大市御狩連まで長男の相続があるので、王朝が「池邊雙槻宮物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」と守屋のとき王朝が変わったことを示しているが、この554年は立太子が倭国・俀国の王朝交代の記述だったことを示しており、葛子の弟が筑紫君になった記述と考えられ、秦王国の朝廷の王朝交代なら宮がかわる。
百済も『三国史記』に「温祚王・・・始祖沸流王・・・生子二人長曰沸流次曰温祚・・・立之爲太子 以至嗣位焉於是沸流謂弟温祚」と長男以外が王になったので立太子して、温祚王二十八年「春二月立元子多婁爲太子」と長男以外からの立太子、当然28年間太子が不在などということは有り得ず、3代目温祚王となるべき人を差し置いて多婁王が太子となって18年後に即位し、3代目温祚王となるべき人の子が太子で、多婁王六年「春正月立元子己婁爲太子」と多婁王の長男が太子となった。
そのため、腆支王の立太子である阿莘王三年「春二月立元子腆支爲太子」まで立太子は無く、三斤王の文周王三年「封長子三斤爲太子」と即位三年目に立太子したのは三斤王が太子になる年齢に達していなかった可能性が有り、武王の立太子も武王三十三年「春正月封元子義慈爲太子」まで立太子はなく、当然、武王の33年間に皇太子がいないはずがない。
新羅は眞興王二十七年「立王子銅輪爲王太子」が最初の立太子で「法興王弟葛文王立宗之子也」と眞興王の長子ではない。
高句麗も琉璃明王十四年「欲以太子都切爲質」と立太子なしで太子が存在し、二十年「太子都切卒」と太子が薨去すると二十三年「立王子解明爲太子」と立太子していて、「閔中王諱解色朱 大武神王之弟也大武神王薨太子幼少不克即政於是國人推戴以立之」と太子が若いと叔父が即位し、5年後には幼少だった太子が即位したが、即位して27年も経った王に幼少な王の子の太子などあまり考えられない。
しかも、『三国遺事』には「第五慕本王 閔中之兄名愛一作憂戊申在位五年」と幼い兄より弟が即位したと記述し、要は初代大武神王の子で2代目大武神王の弟が閔中で2代目大武神王の子が慕本王という意味で、これなら年齢もよく合う。
朝鮮と日本はこのように同じ方法の皇位継承を行っていると感じられ、長男が皇太子の年齢に達していたら立太子無しで太子にし、そうでなかったら、義理も含めて兄弟や甥を太子にするのだろう。
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