『日本書紀』慶長版は
「三十一年春三月甲申朔蘇我大臣稻目宿祢薨夏四月甲申朔乙酉幸泊瀬柴籬宮越人江渟臣裾代詣京奏曰髙麗使人辛苦風浪迷失浦津任水漂流忽到着岸郡司隱匿故臣顯奏詔曰朕承帝業若干年髙麗迷路始到越岸雖苦漂溺尚全性命豈非徽猷廣被至德魏魏仁化傍通洪恩蕩蕩者哉有司冝於山城國相樂郡起館淨治厚相資養是月乗輿至自泊瀬柴籬宮遣東漢氏直糠兒葛城直難波迎召髙麗使人五月遣膳臣傾子於越饗髙麗使大使審知膳臣是皇華使乃謂道君曰汝非天皇果如我疑汝既伏拜膳臣倍復足知百姓而前詐余取調入巳冝速還之莫煩飾語膳臣聞之使人探索其調具爲與之還京復命秋七月壬子朔髙麗使到于近江是月遣許勢臣猿與吉士赤鳩發自難波津控引舩於狹狹波山而裝飾舩乃往迎於近江北山遂引入山背髙楲館則遣東漢坂上直子麻呂錦部首大石以爲守護更饗髙麗使者於相樂館三十二年春三月戊申朔壬子遣坂田耳子郎君使於新羅問任那滅由是月髙麗獻物幷表未得呈奏經歷數旬占待良日夏四月戊寅朔壬辰天皇寢疾不豫皇太子向外不在驛馬召到引入臥內執其手詔曰朕疾甚以後事属汝汝湏打新羅封建任那更造夫婦惟如舊曰死無恨之是月天皇遂崩于內寢時年若干五月殯于河內古市秋八月丙子朔新羅遣予(弔)使未叱号失消等奉哀於殯是月未叱号失消等罷九月葬于檜隈坂合陵」
【三十一年の春三月の甲申が朔の日に、蘇我の大臣の稻目の宿禰が薨じた。夏四月の甲申が朔の乙酉の日に、泊瀬の柴籬の宮に行幸した。越の人の江渟の臣の裙代が、京に参上して「高麗の使人が、風浪で難儀して、迷って浦の津が見つからず、潮の流れのまゝに漂流して、知らず知らずに岸に漂着した。これを郡司が隱匿した。それで、私がそれを報告しようとした」と奏上した。「私は、国を治める事業を受け継いで、さほど経ってはいない。高麗は、海路に迷って、はじめて越の海岸にやってきた。漂流して溺れ苦しんでもなお命を全うしようとしている。どうして何も考えないでひろく知れわたって高く大きな徳を備えめぐみを施して敎化して、傍から見てはてしなく広い大恩となるのだろうか。役人は、山城の国の相樂の郡に、館を建てて、浄めて治療して、手厚く互いに元手を集めて助け養いなさい」と詔勅した。この月に、天皇は輿に乗って泊瀬の柴籬の宮から戻った。東の漢氏の直の糠兒と葛城の直の難波を派遣して、高麗の使者を迎て召かせた。
五月に、膳の臣の傾子を越に派遣して、高麗の使者を饗応した。大使は、調べて膳の臣が勅使であることを知った。それで道の君に「お前は、天皇では無い、やはり私が疑った通りだ。お前は膳の臣に頭を下げて礼拝しているではないか。益々やはりお前が百姓だと言うことが解った。それなのに以前、私をだまして、年貢を取って懐に入れた。すぐに返しなさい。へたな言い訳は不要だ」と言った。膳の臣は、それを聞いて、証拠を探し求めさせて、京に帰るためによく調べて復命した。秋七月の壬子が朔の日に、高麗の使者が、近江に着いた。この月に、許勢の臣の猿と吉士の赤鳩とを派遣して、難波の津を発って、船を狹狹波山に引き上げた、船に飾を施して、それで近江の北の山に迎に行った。それで山背の高楲館に引き入れて、それで東の漢の坂上の直の子麻呂と錦部の首の大石を派遣して、守護にした。また、高麗の使者を相樂の館で饗応した。三十二年の春三月の朔が戊申の壬子の日に、坂田の耳子の郎君を派遣して、新羅への使者として、任那を滅ぼした理由を問いたださせた。この月に、高麗の献上物と上表文がまだ上程出来てなかった。しばらく経って、吉日を占って待った。夏四月の朔が戊寅の壬辰の日に、天皇は、病気で寝込んでしまった。皇太子は、都の外に出ていて不在だった。早馬で呼び寄せて寝所に引き入れて、その手を取って「私の、病はひどい。後の事はお前に継がせる。お前は、新羅を打ち、任那を諸侯に配分しなさい。もういちど夫婦のようになって、昔のようになれば、死んでも心残りは無い」と詔勅した。この月に、天皇は、とうとう寝室で崩じた。この時、在位年数はほんの少しだった。五月に、河内の古市に遺体を置いて祈った。秋八月の丙子が朔の日に、新羅は、弔使の未叱子と失消等を派遣して、遺体に哀悼を奉じた。この月に、末叱子と失消等が帰った。九月に、桧隈の坂合の陵に葬った。】とあり、標準陰暦と合致する。
「朕承帝業若干年」と皇位を受け継いで少ししかたっていないと述べているが、欽明天皇31年なのだから、この即位してから若干年で死亡時の年齢も若干の天皇は欽明天皇では無く、稲目は薨去して1ヶ月で若干年どころか若干月とも言えず、欽明天皇は3代程度継承されている。
当然、次代の敏達天皇はこの崩じた天皇の子ではなく、弟若しくは叔父となり、『舊事本紀』に「孫物部荒山連公目大連之子・・・物部尾輿連公荒山太連之子・・・弓削連祖倭古連女子阿佐姫次加波流姫各兄生四兒・・・孫物部麻佐良連公・・・弟物部目連公此連公継體天皇御世為大・・・物部大市御狩連公尾輿大連之子・・・弟物部守屋大連公子日弓削大連・・・物部大人連公御狩大連之子・・・弟物部目連公・・・此連公磯城嶋宮御宇天皇御世爲大連」と目大連の子が荒山、その子が尾輿、尾輿の義父倭古が弓削連の祖、守屋が弓削連で、尾輿と御狩の子が目大連で世代的に尾輿の子の目大連がここで崩じた天皇で叔父の弓削連の祖の倭古が皇位を得て、太子が守屋だと考えられ、大臣と記述された。
『舊事本紀』の目大連は「継體天皇御世」、「磯城嶋宮御宇天皇御世」と記述しているが、継体から欽明朝の間襲名し、欽明朝で襲名が終わった事を表している。
『舊事本紀』欽明天皇に「物部尾輿連公為大連物部目連公為大臣」、用明天皇に「池邊雙槻宮物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」と目王朝の最後の皇太子が目大連で、弓削王朝の最後の皇太子が守屋であることを示している。
この天皇の配下の東漢直は「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」と漢直と東漢直の記述は記述する王朝の違いで、「東漢直駒東漢直磐井子也」と倭国王・筑紫国造の氏姓と証明した。
欽明天皇十六年「遣蘇我大臣稻目宿禰穗積磐弓臣等使于吉備五郡置白猪屯倉」、欽明天皇三十年「膽津檢閲白猪田部丁者依詔定籍果成田戸天皇嘉膽津定籍之功賜姓爲白猪史」、敏達天皇三年「遣蘇我馬子大臣於吉備國増益白猪屯倉與田部即以田部名籍授于白猪史膽津」と稲目の支配下だった吉備白猪が馬子の支配下になった。
すなわち、稲目が薨去した後、糟屋郡から吉備・山背・近江までが馬子の勢力下に入ったが、船を「舩於狹狹波山而裝飾舩」と狹狹波山で迎えの船に飾りなおしていて、天皇なら最初から賓客を迎える船で迎えればよいのだから、実際は天皇をかたっていることが解り、実際の天皇は目大連である。
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