2020年6月8日月曜日

最終兵器の目 欽明天皇 11


 ※前項に引き続き仏教と文字の普及について

倭国は正始元年240年に上表し文字を使用しているのだが、仏教流入無しのため文字の普及が無く、425年の『宋書』「太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物」とこれらの表は中国への上表なのだから中国仕様の紙の可能性が高く、『日本書紀』610年の推古天皇十八年「高麗王貢上僧曇徴法定曇徴知五經且能作彩色及紙墨」以前に倭国では紙漉きが行われた可能性が有る。

ちなみに、百済は『三国史記』に384年枕流王元年「九月胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮內 禮敬焉佛法始於此」と仏教が流入して紙の製法も入ったと言われ、『宋書』に425年元嘉二年「其後每歲遣使奉表獻方物」、『三国史記』472年蓋鹵王十八年に「遣使朝魏上表曰」と仏教流入から40年後に上表している。

新羅は『梁書』に「無文字刻木爲信」、『梁職貢図』に521年「斯羅國・・・普通二年其王姓募名泰始使隨百濟奉表献方物・・・無文字刻木為範」と文字が無いのに上表文を提出しているように、文字が普及していないことを示し、『三国史記』に528年法興王十五年「肇行佛法」と仏教流入の始まりを記述している。

しかし、王名が法興王で十五年は妙で、智證麻立干15年が正確のようで、514年に仏教が流入して、『三国史記』に611年眞平王立三十三年「王遣使隋奉表請師隋煬帝許之」と表を送り、『隋書』は「其文字甲兵同於中國」と文字が中国と同じ述べ、ちなみに、中国側の上表文記事は、『舊唐書』655年永徽六年「百濟與高麗靺鞨率兵侵其北界攻陷三十餘城春秋遣使上表求救」である。

高句麗は『三国史記』に372年小獸林王二年「夏六月秦王苻堅遣使及浮屠順道送佛像經文 王遣使廻謝以貢方物立大學敎育子弟」と仏教が流入し、413年長壽王元年「遣長史高翼入晉奉表」とやはり40年程度後に上表文を送り『宋書』も「高句驪王高璉晉安帝義熙九年遣長史高翼奉表獻赭白馬」と対応させている。

すなわち、『日本書紀』の応神天皇二八年の「高麗王遣使朝貢因以上表」は391年か396年即位の応神天皇で417年か423年の出来事と解り、「以表状無禮則破其表」と広開土王の子で倭を撃退し、応神天皇二十年、391年即位の応神天皇20年409年か415年に「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」と扶桑国に倭が助けを求め、『三国史記』413年長壽王元年に「遣長史高翼入晉奉表獻赭白馬安帝封王高句麗王楽浪郡公」と晋に認められた余勢をかって日本にも威圧的になったのだろう。

ちなみに碑文の「而倭以辛卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」すなわち391年が香椎宮の王と穴門豐浦宮の王の連合軍が新羅に侵略し大勝利した朝鮮側の資料と考えられる。

そして、応神天皇三七年すなわち391年即位の応神37年426年若しくは396年即位で432年に「阿知使主等渡高麗國欲逹于呉則至高麗更不知道路乞知道者於高麗」、仁徳天皇五八年これは平群氏の王家の歴史で450年前後に当たる「呉國高麗國並朝貢」と高句麗を頼って南朝に貢献して『梁書』の訪中記事に繋がるのである。

『日本書紀』慶長版は

十四年春正月甲子朔乙亥百濟遣上部德卒科野次酒杆率禮塞敦等乞軍兵戊寅百濟使人中部杆率木?(刕)今敦河內部阿斯比多等罷歸夏五月戊辰朔河內國言泉郡弟(茅)渟海中有梵音震響若雷聲光彩晃曜如日色天皇心異之遣溝邊直入海求訪是月(時)溝邊直入海果見樟木浮海玲瓏遂取而獻天皇命畫工造佛像二軀今吉野寺放光樟像也六月遣內臣(闕名)使於百濟仍賜良馬二疋同舩二隻弓五十張箭五十具勅云所請軍者隨王所湏別勅醫博士易博士曆博士等宜依番上下今上件色人正當相代年月宜付還使相代又卜書曆本種種藥物可付送秋七月辛酉

朔甲子幸樟勾宮蘇我大臣稻目宿祢奉勅遣王辰爾數錄舩賦即以王辰爾爲舩長因賜姓爲舩史今舩連之先也八月辛卯朔丁酉百濟遺上部奈卒科野新羅下部固德汶休帶山等上表曰去年臣等同議遣內臣德卒次酒任那大夫等奏海表諸彌移居之事伏待恩詔如春草之仰甘雨也今年忽聞新羅與狛國通謀云百濟與任那頻詣日本意謂是乞軍兵伐我國歟事若實者國之敗亡可企踵而待庶先日本兵未發之間伐取安羅絁日本路其謀若是臣等聞茲深懷危懼即遣疾使輕舟馳表以聞伏願天慈速遣前軍後軍相續來救逮于秋節以固海表弥移居也若遲晩者噬臍無及矣所遣

軍衆來到臣國衣糧之費臣當充給來到任那亦復如是若不堪給臣必助充令無乏少別的臣敬受天勅來撫臣蕃夙夜乾乾勤修庶務由是海表諸蕃皆稱其善謂當萬歲肅清海表不幸云亡深用追痛今任那之事誰可修治伏願天慈連(速)遣其代以鎮任那又復海表諸國甚乏弓馬自古迄今受之天皇以禦強敵伏願天慈多貺弓馬

十四年の春正月の朔が甲子の乙亥の日に、百済は、上部の徳卒の科野次酒と杆率の禮塞敦達を派遣して、軍兵の派兵を願い出た。戊寅の日に、百済の使者の中部の杆率の木刕今敦と河内部の阿斯比多達が帰った。夏五月の戊辰が朔の日に、河内の国が「泉の郡の茅渟の海の中で、仏の声が聞こえた。震え響いて来るのは雷の音のようで、あざやかに輝く光が太陽の光の様に眩しく光った。」と言った。天皇は、不思議に思って、溝邊の直を派遣して、海に入って探し求めた。この月()に、溝邊の直は、海に入って、思った通り、海に浮んで美しく照り輝く樟木を見つけた。すぐに取って天皇に献上した。飾り彫刻師に命じて、佛像を二躯を造らせた。今、吉野の寺で、光を放っている樟の像だ。六月に、内臣を百済に使者として派遣した。それで良馬を二匹と木を張り合わせた(?お揃いの)船二隻と弓を五十張と箭を五十具を与えた。「願い出た軍は王の好きなように」と詔勅した。それとは別に、「薬の教授と易の教授と歴の教授達は、朝廷に上ったり下りたりは順にするのがいい。今、のぼる者の順の人は区切り良く年や月でそれぞれ交代して当たり、帰る使者と一緒に交代した方がいい。また占いの書や歴の本や種々の薬を送れ」と詔勅した。秋七月の朔が辛酉の甲子の日に、樟の勾の宮に行幸した。蘇我の大臣の稻目の宿禰は、詔勅を聞いて王辰爾を派遣して、船で運ばれた貢物を数えて記録した。それで王辰爾を船の長とした。それで姓を与えて船の史とした。今の船の連の先祖だ。八月の朔が辛卯の丁酉の日に、百済は、上部の奈卒の科野新羅と下部の固徳の汶休帶山達を派遣して、「去年、私達は、考えを同じにして、内臣の徳卒の次酒と任那の大夫達を派遣して、海外の諸々の彌移居の事情を奏上する。土下座して情け深い詔勅を、春草が丁度良く潤す雨を待ち望むように待った。

今年、急に聞いたが、新羅と狛国とが示し合わせてたくらんで、『百済と任那とが、頻繁に日本に行っている。おもうにこれは軍隊をねだって、私の国を伐とうとしているのか。もし本当なら、国が滅亡することを首を長くして待ち焦がれているのだろう。まず、日本の軍が来ない間に安羅を伐ち取って、日本との路を絶とう』と、その企みはこのようだった。私達はこう聞いて、心の底から危ぶんでいます。それで軽やかに進む船で早駆けの使者を派遣して、表を急いで知らせました。土下座して願うのは、天のいつくしみで早く先陣と控えの軍隊を派遣して、続きざまに来て救ってください。秋までに、海外の彌移居の守りを固めます。もし遅くなったら、臍を噛むことになるでしょう。派遣された軍隊が、私の国に着いたら、軍服と兵糧の費用は私が充当します。任那に着いた時もこのようにします。もし、足りなければ、私がきっと補充して足りないようなことが無いようにします。別に的の臣が謹んで天皇の詔勅を受け入れ、やって来て藩を鎮めた。朝から晩まで怠けず努力して、いろいろな雑務をせいを出してまとめている。このため、海外の諸蕃が、皆、よくやったと言っている。ずっと後の世まで海外を厳しく取り締まって、乱れや不正な者を除かなければといっていたけれど、不幸にも死んでしまって、とても心をいためた。今、任那の事を、誰が手を加えてなおせるのか。土下座してお願いしますのは、天皇がなさけぶかくすみやかにその代わりを派遣して、任那を鎮圧してください。何度も言うが海外の諸国は、とても弓や馬が足りない。昔から今になるまで、天皇から受け取って、強敵を防いだ。土下座してお願いするのは、天皇のなさけぶかさで多くの弓や馬を送ってください」と上表文で訴えた。】とあり、五月戊辰朔は553年ではなく552年で、552年5月では552年十月より前になってしまうので翌年に挿入したのであり、それ以外は標準陰暦と合致する。

当然、樟木が流れて来て仏像を彫ったのが10月に初めて仏像を見た以前では話が合わないので、翌年に入れたのだが、それでも、数か月前に見た仏像なのに、流れて来た樟木で仏像を造る職人がいたことからも既に話が妙で、畿内では『梁書』に「宋大明二年賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像」と457年に仏像も仏教も流入していたのだから、仏像を造る職人がいても不思議ではない。

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