2020年6月12日金曜日

最終兵器の目 欽明天皇 13


   『日本書紀』慶長版は

二月百濟遣下部杆率將軍三貴上部奈卒物部烏等乞救兵仍貢德卒東城子莫古代前番奈卒東城子言五經博士王柳貴代固德馬丁安僧曇恵等九人代僧道深等七人別奉勅貢易博士施德王道良曆博士固德王保孫醫博士奈卒王有㥄陀採藥師施德潘量豊固德丁有陀樂人德三斤季德巳麻次季德進奴對德進陀皆依請代之三月丁亥朔百濟使人中部木?()施德文次等罷歸夏五月丙戌朔代(戊)子內臣卒舟師詣于百濟冬十二月百濟遣下部杆卒汶斯干奴上表曰百濟王臣明及在安羅諸倭臣等任那諸國旱岐等奏以斯羅無道不畏天皇與?()同心欲殘滅海北?(:+尓)移居遣有至臣等共議臣等仰乞軍士征伐斯羅而天皇遣有至臣帥軍以六月至來臣等深用歡喜以十二月九日遣攻斯羅臣先遣東方領物部莫哥武連領其方軍士攻函山城有至臣所將來民筑紫物部莫竒委沙竒能射火箭蒙天皇威靈以月九日酉時焚城拔之故遣單使馳舩奏聞別奏若但斯羅者有至臣所將軍士亦可足矣今?()與斯羅同心戮力難可成功伏願速遣竹斯嶋上諸軍士來助臣國又助任那則事可成又奏臣別遣軍士萬人助任那幷以奏聞今事方急草舩遣奏伹奉好錦二疋毾㲪一領斧三百口及所獲城民男二女五輕薄追用悚懼餘昌謀伐新羅耆老諫曰天未與懼禍及餘昌曰老矣何怯也我事大國有何懼也遂入新羅國築久陀牟羅塞其父明王憂慮餘昌長苦行陳久廢眠食父慈多闕子孝希成乃自往迎慰勞新羅聞明王親來悉發國中兵斷道擊破是時新羅謂佐知村飼馬奴苦都曰苦都賤奴也明王名主也今使賤奴殺名主冀傳後世莫忌於口巳卯苦都乃獲明王再拜曰請斬王首明王對曰王頭不合受奴手苦都曰我國法違背所盟雖曰國王當受奴手明王仰天大息涕泣許諾曰寡人毎念常痛入骨髄願計不可苟活乃延首受斬苦都斬首而殺掘坎而埋餘昌遂見圍繞欲出不得士卒遑駭不知所圖有能射人筑紫國造進而彎弓占擬射落新羅騎卒最勇壯者發箭之利通所乗鞍前後橋及其被甲領會也復續發箭如雨?()厲不懈射却圍軍由是餘昌及諸將等得從間道逃歸餘昌讚國造射却圍軍尊而名曰鞍橋君於是新羅將等具知百濟疲盡遂欲謀滅無餘有一將云不可日本天皇以任那事屢責吾國況復謀滅百濟官家必招後患故止之

二月に、百済は、下部の杆率の將軍の三貴と上部の奈卒の物部の烏達を派遣して、援軍を要請した。それで徳卒の東城子の莫古を献上して、前の順の奈卒の東城子の言に交代した。五経の博士の王柳貴を、固徳の馬丁の安に代えた。僧の曇慧等九人を、僧の道深等七人に交代した。別に詔勅を聞いて、易の博士の施徳の王道良と暦の博士の固徳の王保孫と医療の博士の奈卒の王有㥄陀と採藥師(薬草の専門家)の施徳の潘量豐と固徳の丁有陀と・楽師の施徳の三斤と季徳の己麻次と季徳の進奴と對徳の進陀を貢上した。みな言う通りに交代した。三月の丁亥が朔の日に、百済の使者の中部の木刕の施徳の文次等が帰った。夏五月の朔が丙戌の戊子の日に、内の臣が、海軍を率いて、百済に行った。冬十二月に、百済は、下部の杆卒の汶斯干奴を派遣して、「百済の王で天皇の臣下の明と、安羅に居る諸々の倭の臣達が、任那の諸国の旱岐達が、『新羅の無道は、天皇を畏れず、狛と一体になって、海北の彌移居を殲滅しようとしている。私達は一緒に話し合って、有至の臣達を派遣して、あがめて軍隊の覇権をお願いして、斯羅を征伐しよう』と奏上した。それで天皇の派遣した有至(?)の臣が、軍隊を率いて、六月にやってきた。私達は、心底喜んだ。十二月九日に、斯羅を攻撃しようと派遣した。私は、まず東方の頭領の物部の莫奇武の連を派遣して、東方の軍隊を率いて、函山の城を攻めさせた。有至(?)臣が將いて来た人民の竹斯の物部の莫奇委沙奇が、上手に火矢を射た。天皇の威光を背に、この月の九日の酉の時に、城を焼いて手に入れた。それで、一人の使者を急ぎの船で派遣して奏上した」と上表文で奏上した。それとは別に「もし斯羅だけ単独なら、有至(?)臣が率いてきた軍隊で足りるだろう。今回は狛と斯羅とが、一つになって全員の力を結集した。勝利するのは難しい。

土下座してお願いしますのは、すぐに竹斯の嶋に湊の諸々の軍隊を派遣して、私の国にやって来て助けてください。また任那を助ければ、再建できます」と奏上した。さらに「私は、それとは別に軍隊を一万人派遣して、任那を助けましょう。さらに奏上します。今は急を要します。草(?)(草で作った様に急ごしらえの船)で派遣して奏上します。ただし上等な錦を二匹と毾㲪(撚り糸?)一領と斧三百口、及び獲得した城の人民の男二人と女五人を献上します。些少で申し訳ありませんが追加分と考えてください」と奏上した。餘昌は、新羅を伐とうと考えた。長老が「天がまだ早い、恐ろしいことが起こると言っている」と諌めた。餘昌は、「年寄り達よ、何を怯える。私は大国に仕えているのだから、何で懼れる必要がる」と言った。とうとう新羅の国に押し入って、久陀の牟羅に要塞を築いた。その父の明王は、餘昌が長い行軍に苦しんで寝食もままならないことを心配した。父の慈愛が行き届かず、子が父の思いに叶わないと思った。それで王自ら子を出迎えて慰労した。新羅は、明王自らやってきたと聞いて、全ての国中の軍を発して、帰路で待ち伏せて撃破した。この時、新羅は、佐知の村の馬の世話をする下男の苦都に「苦都は身分の低い下男です。明王は名の通った主だ。今、身分の低い下男に名が通った主を殺させた。後世、口々に噂となって、忘れられない」と言った。もう苦都は、明王を捕まえ、 二礼して、「王の首を斬らさせてもらいます」と言った。明王は「王の頭を下男の手で受けてはいけない」と答えた。苦都が「私の国の法では、約束したことを守らなければ、国王と言えども、下男の手で受けることが出来る」と言った。

明王は、天を仰いで、大きくため息をついて涙を流して泣いた。「私はいつも思っているが、骨髄に刀が入ったらきっと痛い。生き残らないように頼むぞ」と受け入れて言って、それで首を伸ばして斬られた。苦都は、首を斬って殺して、穴を掘って埋めた。餘昌はとうとうとり囲まれて、出るに出られなかった。士官と兵卒はあわてふためいて、どうしたらよいか解らなかった。弓打ち名人の、

筑紫の国造がいて。進み出て弓を引いて、おおよそに判断して新羅の騎兵の最も勇敢な者を射落した。放った矢は鋭く、乗った鞍の前と後の橋を貫いて、鎧で覆われた襟首の喉元を貫いた。

そして、次々に矢は雨あられと放って、いよいよ激しく、休むことが無く、包囲軍は退却した。これで、餘昌とその諸將等は、抜け道を使って逃げ帰ることが出来た。餘昌は、国造が、包囲軍を退却させたことを褒めて、貴んで鞍橋君と名付けた。ここで、新羅の將軍達は、百済の疲れ尽きた様子を知り、全滅させようとした。ある将軍がいて「それはだめだ。日本の天皇は、任那の事で、たびたび私の国を責める。ましてまた、百済の官家を滅ぼそうとした、きっと後で悪い事を招く」と言ったので止めた。】とあり、標準陰暦と合致する。

筑紫国造が君を賜姓されて筑紫君鞍橋と名乗った述べているが、継体天皇二二年に「筑紫君葛子恐坐父誅獻糟屋屯倉求贖死罪」と筑紫君となっていて矛盾があるが、これは、磐井の反乱が553年まで続いていたことを示し、554年に葛子が「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」と筑紫国造に即位して12月に筑紫君に出世したことになる。

592年の崇峻天皇五年記事の「東漢直駒東漢直磐井子也」と馬子の義子で有るとともに磐井の子で馬子は推古天皇三四年「大臣薨仍葬于桃原墓大臣則稻目宿禰之子也」と一代だったら化け物のなで襲名しているが、磐井は確実に554年正月に死んでいるので、葛子20代で駒は十代と想像される。

立太子は554年以前は仁賢天皇七年494年にあり、この時倭王武から磐井すなわち、磐の地(?筑後の八女)に筑紫国造王朝の宮が変わり、『広開土王碑文』の「而倭以辛卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」すなわち391年に豊国と倭の連合軍が三韓に攻めたが敗れ、409年か415年に「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」と扶桑国に、421年『宋書』「永初二年倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」と中国に臣従して後代まで生き延びた。

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