2020年6月5日金曜日

最終兵器の目 欽明天皇 10

 

 『日本書紀』慶長版は

冬十月百濟聖明王遣西部姫氏達卒怒唎斯致契等獻釋迦佛金銅像一軀幡蓋若干經論若干卷別表讚流通禮拜功德云是法於諸法中最爲殊勝難解難入周公孔子尚不能知此法能生無量無邊福德果報乃至成辨無上菩提譬如人懷隨意寶逐所湏用盡依情此妙法寶亦復然祈願依情無所乏旦夫遠自天竺爰洎三韓依教奉持無不尊敬由是百濟王臣明謹遣陪臣怒唎斯致奉傳帝國流通畿內果佛所記我法東流是日天皇聞巳歡喜踊躍詔使者云朕從昔來未曽得聞如是微妙之法然朕不自決乃歷問群臣曰西蕃獻佛相貌端嚴全未曽有可禮以不蘇我大臣稻目宿祢奏曰西蕃諸國一皆禮之豊秋日本豈獨背也物部大連尾輿中臣連鎌子同奏曰我國家之王天下者恒以天地社稷百八十神春夏秋冬祭拜爲事方今改拜蕃神恐致國神之怒天皇曰宜付情願人稻目宿祢試令禮拜大臣跪受而忻悅安置小墾田家懃修出世業爲因淨捨向原家爲寺於後國行疫氣民致夭殘久而愈多不能治療物部大連尾輿中臣連鎌子同奏曰昔日不湏臣計致斯病死今不遠而復必當有慶宜早投弃懃求後福天皇曰依奏有司乃以佛像流弃難波堀江復縱火於伽藍焼燼更無餘於是天無風雲忽炎大殿是歲百濟棄漢城與平壤新羅因此入居漢城今新羅之牛頭方尼彌方也

冬十月に、百済の聖明王は、西部の姫氏の達卒の怒唎斯致契達を派遣して、釋迦佛の金銅像一躯と幢幡と天蓋をいくらかと経蔵と論蔵をいくらかの卷を献上した。別の上表文で、一か所に滞らず、跪いて拝みよい行いの報いを讃えて「この法は諸々の法の中で、最もすぐれています。解りにくくて入りにくい。周公や孔子でも、理解できません。この法は良く出来て、はかり知れず、果てしなく、善行によって得られる功徳があって、報われ、すなはちこの上もない悟りの境地の人のようだ。思いのままになる宝を懐にすると、どこでも必要不可欠な場合に、思うがまゝになる、このような言葉では言いつくせない宝も同然で、願い事をこめて祈ると思うがまゝ足りないものが無い。しかも、それは遠く天竺から、ここにつき、三韓は教えのまゝいただき奉り、うやまわない者はいない。これで、百済王で天皇の臣の明は、つつしんで陪臣の怒唎斯致契を派遣して、帝の国にお伝えして、畿内で広く行って、佛が『私の法は東に伝わる』と書いたことを果たせた」と言った。この日に、天皇は、聞き終わって、大変喜んで、おどり上がって、使者に「私は、昔からこのかた、いまだかつてこのような簡単には言い表せない法を聞いたことが無い。それだけれども私には、決められない」と詔勅した。それで群臣に夫々順に「西の蕃が献上した佛の容貌が整っていて威厳がある。こんなものは全く見たことが無い。敬うべきかどうか」と問いかけた。蘇我の大臣の稻目の宿禰が「西の蕃の諸国は、一様に敬っているのに、豊の秋の日本が、どうして一国だけそれに逆らえるのか」と奏上した。物部の大連の尾輿と中臣の連の鎌子が、「私の王の国家とは、天下の王がいつも天地・国家・百八十神・春夏秋冬を祀る事だ。今改めて他国の神を拝むと、土地の神が怒って恐ろしいことになるだろう」と同じように奏上した。天皇は「事情を知って願い出ている稻目の宿禰に任せて、試しに礼拝させよう」と言った。大臣は、跪いて受け取って喜んで小墾田の家に安置した。代々受け継いできた仕事を離れ、はげんで学ぶことをよりどころとした。向原の家を淨め施して寺にした。あとで、国に疫病が流行り、人民が長く大勢むごい若死して、治せなかった。物部の大連の尾輿と中臣の連の鎌子は、「以前私の言うことを聞かなかったから、このような病死をだすことになった。今でも遅くない。元に戻せば、きっと喜びが有るだろう。はやく投げ棄てて、後の福を求めるべきだ」と同じように奏上した。天皇は、「いうとおりに」と言った。役人は、それで佛像を、難波の堀江に流し捨てた。また伽藍に火つけて、焼き尽くして何も残らなかった。そして、天には風も雲も無いのに、急に大殿に災いがあった。この歳に、百済が、漢城と平壤とを棄てた。新羅は、これで、漢城に入城した。今の新羅の牛頭方と尼彌方だ。】とある。

この項も朔の日干支が無く、稲目が今いる場所が豊の秋だと言っていて、安芸の可能性が高く、しかも、秦王国でも倭でもなく日本と呼び、『梁書』には「扶桑國者齊永元元年其國有沙門慧深來至荊州・・・宋大明二年賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像敎令出家風俗遂改」と既に457年に仏教がインドから入り499年には僧侶が訪中している。

すなわち、この記事は、仏教が既に流行している畿内ではなく、蘇我氏の倭国王朝での話で、また、稲目が仏門に入った様子が全くなく、稲目大臣と大臣と呼ばれるのは皇太子・大王のことを表し、実際は、ある王朝の皇太子が出家(出世)して仏門に入ったと述べているのである。

私はこの頃に王が仏門に入った記述を良く知っていて、『隋書』に「天未明時出聽政跏趺坐」のように政務につき、「敬佛法於百濟求得佛經始有文字」とこの項と同じく百済から仏法を学んで、文字が庶民に普及したとしている。

そして、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』には「上宮法皇」と皇帝が出家した地位で、『隋書』に「大業三年・・・日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覧之不悦」と自分は隋帝と同じ天子すなわち皇帝だと自負して、この皇帝が出家したのだから法皇なのである。

もちろん、この607年の『隋書』や621年の『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』は591年即位で出家した王の孫の世代で、しかも、この頃、『隋書』で「無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字」と文字が入った様に記述されているが、『三国志』「正始元年・・・倭王因使上表答謝恩詔」と蔡倫が105年頃に改良した紙の上表文を中国に提出している。

すなわち、『唐会要』に「俗有文字敬佛法椎髻無冠帶隋煬帝賜之衣冠」、『旧唐書』に「頗有文字俗敬佛法」と仏教が普及することで庶民にまで文字が普及した、すなわち、紙に類するものが普及したことを示していて、『梁書』に「有文字以扶桑皮爲紙」と扶桑の木の皮が紙の役割をして畿内の庶民に普及しているから「有文字」なのである。

長くなるので続きは次項で述べる。

0 件のコメント:

コメントを投稿