『日本書紀』慶長版は
「十六年春二月百濟王子餘昌遣王子惠奏曰聖明王爲賊見殺天皇聞而傷恨廼遣使者迎津慰問於是許勢臣問王子惠曰爲當欲留此間爲當欲向本鄕惠荅曰依憑天皇之德冀報考王之讎若垂哀憐多賜兵革雪垢復讎臣之願也臣之去留敢不唯命是從俄而蘇我臣問訊曰聖王妙達天道地理名流四表八方意謂永保安寧統領海西蕃國千年萬歲奉事天皇豈圖一旦眇然昇遐與水無歸即安玄室何痛之酷何悲之哀凢在含情誰不傷憚當復何咎致茲禍也今復何術用鎮國家惠報荅之曰臣禀性愚蒙不知大計何況禍福所倚國家存亡者乎蘇我卿曰昔在天皇大泊瀬之世汝國爲髙麗所逼危甚累卵於是天皇命神祇伯敬受策於神祇祝者廼託神語報曰屈請建邦之神往救將亡之主必當國家謐靖人物又(乂)安由是請神往救所以社稷安寧原夫建邦神者天地割(?判)之代草木言語之時自天降來造立國家之神也頃聞汝國輟而不祀方今悛悔前過脩理神宮奉祭神靈國可昌盛汝當莫忘秋七月己卯朔壬午遣蘇我大臣稻目宿祢穗積磐弓臣等使于吉備五郡置白猪屯倉八月百濟餘昌謂臣等曰少子今願奉爲考王出家修道諸臣百姓報言今君王欲得出家修道者旦(?且)奉教也嗟夫前慮不定後有大患誰之過歟夫百濟國者髙麗新羅之所爭欲滅自始開國迄于是歲今此國宗將授何國要湏道理分明應教縱使能用耆老之言豈至於此請悛前過無勞出俗如欲果願湏度國民餘昌對曰諾即就圖於臣下臣下遂用相議爲度百人多造幡蓋種種攻(?功)德云云」
【十六年の春二月に、百済の王子の餘昌が、王子の惠を派遣して「聖明王は、賊の為に殺された」と奏上した。天皇はそれを聞いて無念さをにじませて、それで使者を派遣して、港で迎えさせて見舞った。そこで、許勢の臣が、王子の惠に「とりあえず、この部屋で休みたいか、はたまた、生まれ故郷に帰りたいか」と問いかけた。惠が、「天皇の徳によって、亡き王の仇を取りたい。もし不憫に思ってもらえるのなら、多くの武器や甲冑を与えてもらって、受けた恥をそそいで仇を取ることが私の願いです。私の進退はただ命ぜられるまゝ従うのみです」と答えた。間もなくして蘇我の臣が、「聖王は、不思議なほどすぐれて自然に定まっている道理と土地の事情を知っていて、名は四方八方に知れ渡っていた。おもうに、永く無事でやすらかな世を保って、海の西の隣国を統治して、千年も万年も天皇に奉公しようとした。ところが考えもしないことに、一寸の隙に、取るに足りないことで登遐してしまい、水が帰らないように棺を納める部屋で安らかにある。なんと痛ましく酷い事か。なんと悲しくて哀れなことか。心ある人でいたみ傷つかない人がいないはずが無い。そして何の咎でこんなことになったのか。今となってどのようにして国家を鎮めるのか」と尋ねかけた。惠は、「私は、生まれつきおろかで道理がわからず、国の計画の事はよくわからない。どうしたらよいのか、幸か不幸かが頼りの国家の存亡をどうしたらよいのか」と答えた。蘇我卿は「昔こんなことが有った。天皇が大泊瀬の時代に、お前の国が、高麗に攻められて、卵を積み重ねたようにとても危なかった。そこで、天皇は、神祇伯に命じて、神を敬って方策の神託を受けた。神官は、それで神が『建国した神が降りることを願って、出かけて行って滅びそうな主を救い国家をなだめ人々も安らかにしなければならない』と神託したと報告した。これで、神を頼んで行って救った。それで、国家は安泰となった。それは建国した神と言うのは、天と地が別れた時代の草や木が話しかけた頃に、天降って国家を造った神だからだ。最近聞いたところ、お前の国は、祀ることを止めたと。今こそ、以前に犯した過ちを悔い改めて、神の宮をつくろいなおして、神のみたまをお祀りすれば、国は栄えることが出来る。お前は絶対に忘れてはいけない」と言った。秋七月の朔が己卯の壬午の日に、蘇我の大臣の稻目の宿禰と穗積の磐弓の臣達を派遣して、吉備の五つの郡に、白猪の屯倉を置いた。八月に、百済の餘昌が、諸臣達に「私が、今願っているのは、父王の為に、出家して道を修めたい」と言った。諸臣や百姓が、「今、王が、出家して道を修めることが出来ると思うのは、ほんの少し教えを受けたからだ。ああ。前々から用心して決めなかったのに、後になって大事になったのは誰の過ちですか。この百済国は、高麗と新羅と争って滅ぶところだった。初めて国を開いてから是年の今になるまで、この国家宗廟がどこかの国に授けられようとしたか。欠かせない正しい道をはっきりと見極めて教えてほしい。長老の言葉をよく聞き入れていればこんなことにならなかった。お願いですから以前の過ちを正して、出家などしないでほしい。もし願いを果たそうと思うのなら、国民を出家させなさい」と答えた。餘昌は「解った」と答て、それで臣下の考えに従った。臣下は、よく相談して、それで百人を出家させて、多くの堂に飾る旗と天蓋を造って、種々の善行をした云々。】とあり、標準陰暦と合致する。
ここで、突如、蘇我卿が登場するが、前項で葛子が筑紫君に出世し、糟屋の屯倉を蘇我氏に献上することで倭国を引き継いだ蘇我氏が任那や百済に口出ししてきたのであり、筑紫君は俀国王として有明海を拠点に新羅と暗躍したのだろう。
また、餘昌が闘った相手が新羅となっているが『三国史記』には威德王元年「冬十月高句麗大擧兵來攻熊川城敗衄而歸 」、高句麗陽原王十年「冬攻百濟熊川城不克」、聖王三十二年「秋七月王欲襲新羅親帥步騎五十夜至狗川新羅伏兵發與戰爲亂兵所害薨」と餘昌が闘った相手は高句麗で、その隙に聖王が新羅を裏切って出撃し、逆に新羅が待ち伏せして聖王が急襲されて崩じた。
前年の聖王三十一年「秋七月新羅取東北鄙置新州冬十月王女歸于新羅」、眞興王十四年「秋七月取百濟東北鄙置新州以阿飡武力爲軍主冬十月娶百濟王女爲小妃」と聖王が新羅に負けたので王女を差し出して和睦していたから、新羅が安心しているだろうと新羅に向かったが新羅も裏切り急襲して聖王を殺害した。
新羅は高句麗に対しても550年陽原王六年「春正月百濟來侵陷道薩城三月攻百濟金城新羅人乘間取二城」、551年陽原王七年「秋九月突厥來圍新城不克移攻白巖城王遣將軍高領兵一萬 拒克之殺獲一千餘級新羅來攻取十城」と混乱の隙に乗じて漁夫の利を得ていて、百済に内通者が居ないと準備が出来ない。
その内通者が俀国王と考えられ、500年智證麻立干立二十二年「春三月倭人攻陷長峰鎭」以降、665年文武王交五年「通倭國」まで倭が出現せず、その間、新羅と同盟していたのが俀国で、糟屋郡を奪った蘇我氏の倭国が664年に滅ぶまで新羅は表向きは倭国に臣従していたが、俀国とともに隙をを伺い、唐を引き込んで倭国を滅ぼしたようだ。
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