『日本書紀』慶長版は
「二年春三月納五妃元妃皇后弟曰稚綾姫皇女是生石上皇子次有皇后弟曰日影皇女是生倉皇子次蘇我大臣稻目宿祢女曰堅鹽媛生七男六女其一曰大兄皇子是爲橘豊日尊其二曰磐隈皇女初侍祀於伊勢大神後坐姧皇子茨城解其三曰臘鳥皇子其四曰豊御食炊屋姫尊其五曰椀子皇子其六曰大宅皇女其七曰石上部皇子其八曰山背皇子其九曰大伴皇女其十曰櫻井皇子其十一曰肩野皇女其十二曰橘本稚皇子其十三曰舍人皇女次堅鹽媛同母弟曰小姉君生四男一女其一曰茨城皇子其二曰葛城皇子其三曰泥部穴穗部皇女其四曰泥部穴穗部皇子其五曰泊瀬部皇子次春日日抓臣女曰糠子生春日山田皇女與橘麻呂皇子」
【二年の春三月に、五人の妃を後宮に引き入れた。最初の妃は、皇后の妹の稚綾姫の皇女といい、この妃は石上の皇子を生んだ。次の妃は皇后の妹で日影の皇女という。この妃は倉の皇子を生んだ。次に蘇我の大臣稻目の宿禰の娘で堅鹽媛という。七人の男子と六人の女子を生んだ。第一子を大兄の皇子といい、橘の豐日の尊と呼んだ。第二子を磐隈の皇女という。はじめ伊勢大神に仕えて祀った。のちに皇子の茨城と共に道を外れたため任を解いた。第三子を臘嘴鳥の皇子という。第四子を豐御食炊屋姫の尊という。第五子を椀子の皇子という。第六子を大宅の皇女という。第七子を石上部の皇子という。第八子を山背の皇子という。第九子を大伴の皇女という。第十子を櫻井の皇子という。第十一子を肩野の皇女という。第十二子を橘の本の稚皇子という。第十三子を舍人の皇女という。次の妃は堅鹽媛の同母の妹の小姉の君という。四人の男子と一人の女子を生んだ。長女を茨城の皇子という。第二子を葛城の皇子という。第三子を泥部の穴穗部の皇女という。第四子を泥部の穴穗部の皇子という。第五子を泊瀬部の皇子という。次の妃に春日の日抓の臣の娘で糠子という。春日の山田の皇女と橘の麻呂の皇子を生んだ。】とある。
皇后は「武小廣國押盾天皇女石姫爲皇后」と宣化天皇の娘とあるが、最初の妃の稚綾姫はたしかに宣化天皇の娘だが、次の日影皇女も宣化天皇の娘としているが注釈でも解らないと記述し、蘇我氏や物部氏の王以外の王を宣化天皇に当てている王がいることを表している。
その王を特定できないが、『古事記』では宣化天皇の子の小石媛でその子が上王と記述されるが、『日本書紀』では『古事記』に記述されない日影皇女の子が倉皇子で、『古事記』では春日の日抓の臣の娘で糠子の子だ。
宣化天皇の娘で欽明天皇の妃の稚綾姫が宣化紀に倉の稚綾姫と記述され稚綾姫と義兄弟の可能性が有り、宣化天皇は蘇我馬子の倭国の家系の可能性が高く、蘇我氏の役職名か義兄弟の名の譯語田渟中倉太珠敷尊も倉と呼ばれる宮で過ごしたと考えらる。
従って、仁賢天皇の娘の橘仲皇女が馬子の宮の妃となり、倭王馬子を襲名した倭王馬子の兄妹の石姫の子も襲名した倭王馬子(譯語田渟中倉太珠敷尊)、義父が秦王国王物部目天皇、先代の秦王国王の物部目天皇の娘が倭王馬子の宮に輿入れした日影皇女で生まれた子が倉皇子と想像される。
そして、馬子の父の稲目の襲名した長男の広国王の稲目の領地の豊国の領地に宮を置く堅鹽媛に婿入りした目天皇の皇子の子が橘豊日や豊御食炊屋姫で、その領地はかつて磐井に領有された石の宮の領地で、磐隈皇女や石上部皇子と名付けられたと考えられる。
『舊事本紀』に「孫内大紫位物部雄君連公守屋大連之子此連公飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位奉齋神宮物部目大連女豊媛爲妻生二兒」と目天皇の姫が豊で生まれて、守屋大臣(皇太子)の子の妃となっていて、「孫物部馬古連公目大連之子」と目天皇の子に馬古がいて、馬子の子も豊浦大臣と呼ばれている。
この、目天皇、倭王馬子、広国・豊国王稲目の宮は570年稲目の薨去まで、
目天皇、倭王馬子は629年の舒明天皇即位までの系図関係で、基本的に『古事記』と同じで、推古天皇の時代に馬子が記述させた史書なのだから、雄略天皇から崇峻天皇までの系図には物部氏に配慮されているのは当然のことだ。
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