『日本書紀』慶長版は
「夏五月辛丑朔詔曰食者天下之本也黃金萬貫不可療飢白玉千箱何能救冷夫筑紫國者遐邇之所朝届去來之所關門是以海表之國候海水以來賓望天雲而奉貢自胎中之帝洎于朕身收藏穀稼蓄積儲粮遙設凶年厚饗良客安國之方更無過此故朕遣阿蘇仍君加運河內國茨田郡屯倉之穀蘇我大臣稻目宿祢冝遣尾張連運尾張國屯倉之穀物部大連麁鹿火宜遣新家連運新家屯倉之穀阿倍臣宜遣伊賀臣運伊賀國屯倉之穀修造官家那津之口又其筑紫肥豊三國屯倉散在懸隔運輸遙阻儻湏如要難以備卒亦宜課諸郡分移聚建那津之口以備非常永爲民命早下郡縣令知朕心秋七月物部麁鹿火大連薨是年也太歲丙辰二年冬十月壬辰朔天皇以新羅冦於任那詔
大伴金村大連遣其子磐與狹手彥以助任那是時磐留筑紫執其國政以備三韓狹手彥往鎮任那加救百濟四年春二月乙酉朔甲午天皇崩于檜隈廬入野宮時年七十三冬十一月庚戌朔丙寅葬天皇于大倭國身狹桃花鳥坂上陵以皇后橘皇女及其孺子合葬于是陵」
【夏五月の辛丑の朔の日に、「食は天下の根本だ。黄金が萬貫有っても、飢を癒すことが出来ない。白い玉が千箱有っても、冷たくなってしまった男をどのように救うことが出来ようか。筑紫国は、遠近の者たちが朝廷に遣ってくる行き来の関所の門となるところである。それで、海の向こうの国は、海の状態をじっと伺って、客人が来て、雲の様子を見て奉献する。お腹の中にいた天皇から、私まで、収穫された穀物を蔵に納め、その余を農作物の出来が非常に悪い年に備えて長い間たくさんたくわえた。国を安らかで平穏にする方法はこれ以上のものは無い。それで、私は、阿蘇仍(?のの)君を派遣して、追加で、河内国の茨田の郡の屯倉の穀物を運ばせた。蘇我の大臣の稻目の宿禰は、尾張の連を派遣して、尾張国の屯倉の穀物を運ばせなさい、物部の大連の麁鹿火は、新家の連を派遣して、新家の屯倉の穀物を運ばせなさい、阿倍臣は、伊賀臣を派遣して、伊賀の国の屯倉の穀物を運ばせ、官家を、那の津の入口に繕い直しなさい。またその筑紫と肥と豊の、三国の屯倉は、散らばってかけはなれて、物を運ぶのに遠いので妨げられていて望み求めることが急に有っても備えとはならない。また諸郡に割り当てて那津の入口に集めて官家を建てるのが良い。それで、思いがけない時に備えて、永く人民の為のものとするべきだ。早く郡縣に命令を下して、私の気持ちを知らしめなさい」と詔勅した。秋七月に、物部の麁鹿火の大連が薨じた。この年は太歳が丙辰だった。二年の冬十月の壬辰が朔の日に、天皇は、新羅の任那に侵略したので、大伴の金村の大連に詔勅して、その子の磐と狹手彦とを派遣して、任那を助けた。この時に、磐は、筑紫に留まって、その国の政策を執り行い、三韓に備えた。狹手彦は、任那に行って鎮圧し、それに加えて百済を救った。四年の春二月の朔が乙酉の甲午の日に、天皇は、桧隈の廬入野の宮で崩じた。この時の年齢は七十三歳だった。冬十一月の朔が庚戌の丙寅の日に、天皇を大倭国の身狹の桃花鳥坂の上の陵に葬った。皇后の橘の皇女とその子供を、この陵に合葬した。】とあり、二年十月壬辰は9月30日で9月が小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。
官家の那の津の食糧を畿内から運んでいるが、これは、那の津以外の九州の地が天皇の領地ではないことを表し、天皇の直轄領は阿蘇仍君に運ばせ、那の津の官家を運営し、何かあった時に磐などのように、適時任命された責任者が官家に滞在して、狹手彦が現地の責任者として戦う方法を採用したようだ。
そして、この磐も狹手彦も賜姓も役職名も記述されていないが、これも、物部氏や蘇我氏の配下でないためと考えられ、俀国の人物と考えた方が理に適い、畿内の人物ではまた失敗しそうなので、手慣れた俀国王に任せたと思われ、磐は倭武と同じように倭磐かも知れず、石姫皇女、小石姫皇女・倉稚綾姫・上殖歯皇子は葛子と兄弟の可能性がある。
「東漢直駒東漢直磐井子也」・「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻河上娘蘇我馬子宿禰女也」と直は縣主や国造の氏姓なのだから、磐井の乱で奪った、磐井が東漢直なのだから駒は糟屋の縣主で、糟屋の縣主が蘇我馬子の配下で義理の息子になった。
だから、俀国の分国の倭国の継体天皇が稲目でその子、倭国の宣化天皇である馬子の子が義子の上殖歯皇子すなわち東漢直駒ということも、磐が馬子若しくは磐井とも考えられ、馬子は推古天皇三四年「大臣薨仍葬于桃原墓大臣則稻目宿禰之子也」と626年に死亡しており、磐井の死亡年も再検証が必要だ。
何度も述べるが、継体・安閑・宣化・・・の各天皇も首都である宮の歴史にすぎず、そこに、多数の王を当て嵌めたにすぎず、安閑・宣化・・・の各天皇名は蘇我氏の役職名で、内容は倭国王・俀国王・秦王国などの王の事績を記述していることを忘れてはならない。
巨勢王朝の崩壊によって、屯倉の穀物を運ばせた意味は、蘇我氏が尾張氏を配下に、物部麁鹿火が新家連を配下、阿倍臣が伊賀臣を配下にしたことを示し、ここには大伴氏が出現せず、代わりに大夫阿倍火麻呂臣が登場していることから、大伴氏は巨勢王朝の側の人物だった可能性が高い。
また、この天皇は陵墓造りに農繁期を含めて9ヶ月しかかかっていないので、竪穴式石棺で溜池用に造った盛り土の頂上に竪穴を掘って石棺をおさめ、やはり皇后も共に埋葬し皇后と天皇が一緒になっての天皇システムという体制をもった王朝の陵墓だと解る。
任那鎮圧記事は『三国史記』法興王十九年532年の「金官國主金仇亥與妃及三子長曰奴宗仲曰武德季曰武力以國帑寶物來降王禮待之授位上等以本國爲食邑子武力仕至角干」と
金官国が敗れたことを受けての戦いなのだろう。
※
注)崇峻天皇までは馬子達が記述しているので、解説文も資料の直引きではないが、同じ王朝内の感想と考えるべきだろう。磐を馬子から見れば自分の親類なのだから氏姓等不要で、物部天皇から見れば蘇我氏、役職名は武小廣國押盾と考えられる。
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