2020年5月25日月曜日

最終兵器の目 欽明天皇 5

 『日本書紀』慶長版は
四年夏四月百濟紀臣奈卒弥麻沙等罷之秋九月百濟聖明王遣前部奈卒真牟貴文護德巳州已婁與物部施德麻奇牟等來獻扶南財物與二口冬十月丁亥朔甲午遣津守連詔百濟曰在任那之下韓百濟郡令城主宜附日本府幷持詔書宣曰爾屢搆表稱當建任那十餘年矣表奏如此尚未成之且夫任那者爲爾國之棟梁如折棟梁誰成屋宇朕念在茲爾湏早早建汝若早建任那河內直等(河內直已見上文)自當止退豈足云乎是日聖明王聞宣勅巳歷問三佐平內頭及諸臣曰詔勅如是當復何如三佐平等荅曰在下韓之我郡令城主不可出之建國之事宜早聽聖勅十二月百濟聖明王復以前詔普示群臣曰天皇詔勅如是當復何如上佐平沙宅已婁中佐平木?()麻那下佐平木尹貴德卒鼻利莫古德卒東城道天德卒木?()昧淳德卒國雖多奈卒燕比善那等同議曰臣等禀性愚闇都無智略詔建任那早湏奉勅今宜召任那執事國國旱岐等倶謀同計抗表述志又河內直移那斯麻都等猶住安羅任那恐難建之故亦幷表乞移本處也聖明王曰群臣所議甚稱寡人之心是月乃遣施德髙分召任那執事與日本府執事倶荅言過正且而往聽焉
【四年の夏四月に、百済の紀の臣の奈卒の彌麻沙達が退いた。秋九月に、百済の聖明王が、前部の奈卒の眞牟貴文と護徳の己州己婁と物部の施徳の麻奇牟達とを派遣して、やって来て扶南の財物と下僕二人とを献上した。冬十一月の朔が丁亥の甲午の日に、津守の連を派遣して、百済に「任那の下韓に居る、百済の郡令と城主は日本府に従いなさい」と詔勅した。それに合わせて詔書を持たせて、「お前に度々上表文で、任那を建よと言ってから、十余年になった。表で言ってもこのようにまだ建っていない。またその任那は、お前の国の屋台骨だ。もし屋台骨が折れたら、誰も家を完成できない。私が考えているのもここにある。早く建てなさい。お前がもし早く任那を建てたなら、河内の直達は、自分で止めて帰国するのは言うまでもない」と宣下した。この日に、聖明王は宣勅を聞いて、三人の佐平の内頭および諸臣に「詔勅はこのようだ。さあ、どうしよう」と夫々に問いただした。三人の左平達は「下韓に居る、私の郡令と城主は出せないが、国を建てる件は、すみやかに尊い詔勅に従います」と答えた。十二月に、百済の聖明王は、また以前の詔勅を、多くの群臣に示して、「天皇の詔勅は、この通りだ。さあどうしたものか」と言った。上の佐平の沙宅己婁と中の佐平の木刕麻那と下の左平の木尹貴と徳卒の鼻利莫古と徳卒の東城道天と徳卒の木刕昧淳と徳卒の國雖多と奈卒の燕比善那達はみな考えて、「私達は、うまれながらに愚かで知恵が足ず、まったく、知恵をはたらかない。任那を建てろと詔勅された。すみやかに詔勅に従わなければなりません。さっそく、任那の庶務官や国々の旱岐達を召集して、一緒に考え意見をまとめて、上表文に対して考えを述べましょう。また河内の直の移那斯と麻都達が、ずっと安羅に居ると、任那は、おそらく、建てることが出来ない。それで、また、意見をまとめて上表して、本国に戻すよう求めてください」と言った。聖明王は、「群臣の考えたことは、本当に私の考えと同じだ」と言った。この月に、それで施徳の高分を派遣して、任那の庶務官と日本府の庶務官を呼んだ。二人とも「元旦を過ごしたら行って聞こう」と答えた。】とあり、十月丁亥朔は標準陰暦と合致する。
任那日本府記事は、氏姓だけ記述して人名が無かったり、伊賀臣を印奇臣と書くように、物部・蘇我王朝の人物とは考えられず、王朝内の人物なら宣化以前と同じ記述方法が出来る。
朝鮮の玄関口の筑紫の那津は「阿蘇仍君加運河內國茨田郡屯倉・・・修造官家那津之口」と各氏族が那津に屯倉を作って食糧を集めて、運んだ責任者は阿蘇仍君のように蘇我大臣稻目宿祢・物部大連麁鹿火と異なる政治勢力の王が運んで、しかも、河内国から阿蘇仍君が運び、任那では河内直が日本府卿を断罪しているが、直は国造の氏姓である。
そして、朝鮮経営は「大伴金村大連遣其子磐與狹手彥以助任那是時磐留筑紫執其國政以備三韓狹手彥往鎮任那加救百濟」と大伴氏が530年まで経営し、物部連奈率用歌多は物部至至の子に思われる。
そして、『日本書紀』と異なる氏名は『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』の「事典曹人名无利弖」から伺え、「武寧王」と同型の遺物が副葬された事典曹人无利弖が日本府の執事で磐井を助けたのではないだろうか。 
武寧王」と同型の遺物が副葬されるということは、形式上、武寧王」と「无利弖」が同等の立場で、肥後の地域では銀錯銘なのだから、肥後の王が剣を副葬していたら金錯銘で「武寧王」が肥後の王の配下の可能性があり、「阿蘇仍君」が筑紫君の後継者の可能性が高いが、武烈天皇七年の法師君是倭君之先也」の倭王も可能性が考えられ、「前進調使麻那者非百濟國主之骨族也故謹遣斯我奉事」と百済王との姻戚の斯我を派遣しその子法師君が倭君と世代も、百済の王家との近親関係、雄略紀には「蘇我韓子宿禰」と韓の地の王のような名と、地理的にも倭君の領地が九州の可能性が高く、名も「斯我」と「蘇我」に近く、馬子が『隋書』の倭王との仮説を補完している。

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