2020年5月11日月曜日

最終兵器の目 宣化天皇 1

 『日本書紀慶長版
武小廣國押盾天皇男大迹天皇第二子也勾大兄廣國押武金日天皇之同母弟也二年十二月勾大兄廣國押武金日天皇崩無嗣群臣奏上剱鏡於武小廣國押盾尊使即天皇之位焉是天皇爲人器宇清通神襟朗邁不以才地矜人爲王君子所服元年春正月遷都于檜隈廬入野因爲宮號也二月壬申朔以大伴金村大連爲大連物部麁鹿火大連爲大連並如故又以蘇我稻目宿祢爲大臣阿倍大麻呂臣爲大夫三月壬寅朔有司請立皇后巳酉詔曰立前正妃億計天皇女橘仲皇女爲皇后
是生一男三女長曰石姫皇女次曰小石姫皇女次曰倉稚綾姫皇女次曰上殖葉皇子亦名椀子是丹比公偉那公凢二姓之先也前庶妃大河內稚子媛生一男是曰火焰皇子是椎田君之先也
武小廣國押盾天皇は、男大迹天皇の第二子で、勾大兄廣國押武金日天皇の同母弟だ。二年の十二月に、勾大兄廣國押武金日天皇が崩じたが継嗣が無かった。群臣が、剱と鏡を武小廣國押盾尊に奏上して、天皇に即位した。この天皇は、人と為りは、心のもちかたが広くて、筋が通っていてわかりやすく、心のうちは何のこだわりもなく時が過ぎた。君子才能や地位がある人ではなく、哀れな人のために王となることを身に着けるべきものだとした。元年の春正月に、都を桧隈の廬入野に遷し、宮と呼んだ。二月の壬申が朔の日に、大伴の金村の大連を大連、物部の麁鹿火の大連を大連とすることは、共に以前と同じだ。また蘇我の稻目の宿禰を大臣とした。阿倍の大麻呂の臣を大夫とした。三月の壬寅が朔の日に、役人が、皇后を立てようと願った。己酉の日に、「以前の正妃すなわち億計天皇の娘の橘仲皇女を立てて皇后としよう」と詔勅した。皇后は一人の男子と三人の女子を生んだ。長女を石姫の皇女といい、次を小石姫の皇女といい、次を倉の稚綾姫の皇女といい、次を上殖葉の皇子といい、またの名は椀子だ。この皇子は丹比の公と偉那公全てで二姓の先祖だ。以前の側室の下の妃の大河内の稚子媛が、一人の男子を生んだ。この子を火焔の皇子といい、この皇子は椎田の君の先祖だ。】とあり、三月壬寅は3月2日で2月は小の月のため、大の月なら標準陰暦と合致し、二月壬申朔も合致する。
『舊事本紀』には「二年春正月都遷檜前謂廬入宮三月壬寅朔」と元年が535年安閑二年で実際の物部氏の天皇と異なる人物が天皇で、この天皇も安閑天皇が12月に崩じたにもかかわらず、1月が元年だが、やはり、遷都が1月で、宮が変わった時に天皇が変わる例になっていて、実際は536年に宮が変わったから天皇が変わったのである。
天皇の一人の生き死には関係が無く、武小廣國押盾を桧隈廬入野天皇に割り当てたにすぎず、王朝の交代に記述される璽すなわち玉と書付が含まれず、武小廣國押盾は天皇より下位の大王の徴ということが解る。
この天皇の皇子に上殖葉皇子がいるが、『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』の「治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖」と「獲□□□鹵大王」がこの皇子ではないかと考えた。
なぜなら、「鹵」は「ル」の可能性が低いと『稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣』でのべたように、学者が「ル」と読ませたくて『日本書紀』では「ロ」と読ませているにもかかわらず「鹵」を当てただけで、朝鮮語の「Lo」が「鹵」で日本語にこの発音が無く、実際は「齒」なのではないかと考えたのである。
江田船山古墳で523年に崩じた百済武寧王の陵から出土した垂飾付耳飾と同型飾が出土したが、当然、江田船山古墳被葬者が武寧王より先に同型飾を使用して副葬されることは考えにくく、武寧王が倭王に送り、それが下賜されたと考える方が合理的だ。
副葬の朝鮮由来物の時代が離れているため、追葬との説が発表されているが、私は、倭武とともに朝鮮に出兵した時の取得物と、530年代に俀国王とともに出兵した時の戦利品が副葬されたため、副葬品の年代が離れていると考えた。
530年頃に上殖葉が天皇ではなく火国の大王となって朝鮮に出兵し、事典曹の「无利弖」に下賜し、死後副葬されたと考えるべきで、同古墳の出土須恵器も日本の須恵器ではなく朝鮮の全羅南道に出土例が多く有り、副葬品との関連が理解できる。
江田船山古墳はかなり副葬が豪華で、かなりの高位の近習のようで、その主君の「獲□□□鹵大王」すなわち「「獲□□□鹵」君が上殖葉なら、斉明天皇七年「天皇遷居于朝倉橘廣庭宮」と朝倉に廣庭があり、江田船山の近傍で、蘇我氏の役職名と考えられる天國排開廣庭の名前も関連し、上殖葉は偉那鏡王の祖としているが、『大村骨臓器銘文』に「大村檜前五百野宮御宇天皇之四世後岡本聖朝紫冠威奈鏡公之第三子也」と年齢が合わず、当然上殖葉は襲名され大王なのだから大臣の可能性が高く、稲目も威奈目とも考えられる。

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