東漢直の初出は掬、463年の雄略七年に新漢の技術者を献上したとある。倭王は漢直の祖の阿知使主とあるように、漢直だった。倭王興から武に替わったのは477年、「倭國遣使獻方物」を最後に翌年、昇明二年に武が「遣使上表」と記述される。親族と記述されず、『日本書紀』も「白髮皇子爲皇太子」と記述する。「爲皇太子」は倭国の王朝交代だった。従って、漢直から東漢直掬、武に倭王が交代したことを意味する。そして、仁賢七年に「爲皇太子」、これは、武烈七年505年と考えられ、石井が筑紫君倭王である。証拠は無いが、武王が502年まで出現する。そして、528年継体二二年に石井薨後、「筑紫君葛子恐坐父誅」と、子の葛子が継承した。崇峻五年に「東漢直駒東漢直磐井子也」と記述されている。
そして、556年欽明十七年に、「筑紫火君百濟本記云筑紫君兒火中君弟」と記述される。火君は筑紫君石井の子で火中君葛子の弟、皇太弟なのだろう。554年欽明十五年に、「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」と倭国の王朝交代を記述している。火中君葛子の子が薨じ、火君の東漢直糠兒が皇太弟になったのだろう。そして、568年、欽明廿九年「立爲皇太子」と東漢坂上直が皇太子、子の麻呂が東漢直駒と考えられる。馬子に殺害された駒、その子の法興帝がまだ若く、693年、推古元年に弟の聖徳帝が皇太弟となったのだろう。東漢直駒の妃の馬子の娘の河上娘が鬼前太后だと考えられる。
0 件のコメント:
コメントを投稿