2023年10月30日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 欽明天皇3

東漢直の初出は掬、463年の雄略七年に新漢の技術者を献上したとある。倭王は漢直の祖の阿知使主とあるように、漢直だった。倭王興から武に替わったのは477年、「倭國遣使獻方物」を最後に翌年、昇明二年に武が「遣使上表」と記述される。親族と記述されず、『日本書紀』も「白髮皇子爲皇太子」と記述する。「爲皇太子」は倭国の王朝交代だった。従って、漢直から東漢直掬、武に倭王が交代したことを意味する。そして、仁賢七年に「爲皇太子」、これは、武烈七年505年と考えられ、石井が筑紫君倭王である。証拠は無いが、武王が502年まで出現する。そして、528年継体二二年に石井薨後、「筑紫君葛子恐坐父誅」と、子の葛子が継承した。崇峻五年に「東漢直駒東漢直磐井子也」と記述されている。

そして、556年欽明十七年に、「筑紫火君百濟本記云筑紫君兒火中君弟」と記述される。火君は筑紫君石井の子で火中君葛子の弟、皇太弟なのだろう。554年欽明十五年に、「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」と倭国の王朝交代を記述している。火中君葛子の子が薨じ、火君の東漢直糠兒が皇太弟になったのだろう。そして、568年、欽明廿九年「立爲皇太子」と東漢坂上直が皇太子、子の麻呂が東漢直駒と考えられる。馬子に殺害された駒、その子の法興帝がまだ若く、693年、推古元年に弟の聖徳帝が皇太弟となったのだろう。東漢直駒の妃の馬子の娘の河上娘が鬼前太后だと考えられる。

570年、欽明卅一年春三月甲申朔に2代目稻目の天国押波流岐広庭・上殖葉が薨じた。そして、571年、欽明三二年四月是月に「天皇遂崩于内寝時年若干」と記述される。また、敏達元年歳次壬辰夏四月壬申朔甲戌に「物部大市御狩連公為大連」と572年4月に即位している。すなわち、尾輿は桧隈高田皇子の娘日影姫との子に皇位を継承したが若干年の在位で崩じた。そのため、皇太子だった御狩、稲目の孫の婿が敏達5年に即位したと考えられる。在位32年で「朕承帝業若干年」のように若干年とは言わない。欽明即位時にも、「卽天皇位時年若干」と記述するように、即位時に20歳代、欽明三二年なら50代で「年若干」ではない。「若干年」と記述される天皇は清寧天皇が在位5年、若干年で合致する。允恭天皇は大草香と考えられ、長男の目弱王が死亡時七歳で、父大草香も若く、これも合致する。在位四二年で若干とは言わない。

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