「南海中耽羅人初通百濟國」は498年東城王二十年八月の「王以耽羅不修貢賦」のことと思われる。それを、仁賢天皇十一年を意祁天皇(武烈天皇)11年目に記述したのだろうか。朝鮮記事は、原文が年号付き記事でない場合、精査が必要である。
「天皇行至樟葉宮」、「遷都山背筒城」、「遷都弟國」は秦王国金村大連天皇の遷都と思われる。『古事記』の袁本杼の扶桑国の首都は伊波禮玉穗宮だろう。「勾大兄皇子親聘春日皇女」は麁鹿火の太子の2代目麁鹿火が春日皇女に婿入りしたのだろう。『古事記』には春日皇女が記述されないから、広国押建金日の妃ではない。
磐井の乱は目大連の子の荒山、孫の尾輿の王朝には影響しなかったようだ。『舊事本紀』には「磐余玉穗朝代石井者從新羅」と磐井が朝鮮で戦っていた人物とだけ記述される。すなわち、石井の乱は麁鹿火、袁本杼、蘇我氏が戦ったようだ。石井の乱で疲弊して、麁鹿火、袁本杼は没落し、目大連と尾輿は漁夫の利を得たことになる。 石井の乱で、袁本杼が527年丁未四月九日に薨じた。「長門以東朕制之筑紫以西汝制之」の長門以東は稲目、筑紫は分割され、糟屋・豊は稲目、筑後と肥は葛子が領有したようだ。
勝てなかった扶桑国は稲目と金村によって、531年「日本天皇及太子皇子倶崩薨」と壊滅状態となったようだ。そして、稲目と同盟した袁本杼の娘婿と思われる広国押建金日が528年、女国王大臣を継承した。小長谷若雀の後継は春日郎子の兄弟が麁鹿火を継承したと思われる。「廿八年歳次甲寅崩」は、その麁鹿火が534年に崩じた記録と考えられる。『舊事本紀』は、物部氏直系の天皇は歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申の「尾輿連公為大連」と記述する。すなわち、538年までは、大伴大連の朝廷だったことを示している。
531年「大歳辛亥三月是月高麗弑其王安」は同年『三国史記』「十三年夏五月王薨號爲安藏王」のようだ。しかし、薨じたのは5月で、『梁書』「七年,安卒」『三国史記』「梁書云安藏王在位第八年普通七年卒」と526年である。すなわち、この『三国史記』の531年記事は『日本書紀』からの引用と解る。また、『三国史記』は「十五年春三月王薨號為安原王」と545年に安原王の薨を記述する。『日本書紀』の安藏王薨の三月と合致する。しかし、『梁書』「太清二年延卒」『三国史記』「梁書云安原以大淸二年卒」と548年薨だ。すなわち、『百濟本記』は安原王の記事にあった、継体25年539年の継体帝崩御の記事を流用したのではないだろうか。539年には継体帝もその子と思われる荒山も崩じているようだ。
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