2023年10月4日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 継体天皇前紀1

  継体天皇の大連を『舊事本紀』「帝皇本紀」は欽明天皇元年「尾輿連公為大連」まで記述しない。麻佐良大連より後、尾輿大連まで、物部氏の傍流ということなのだろう。天皇と呼ばれる主要な王族は全て姻戚関係がある。だから、蘇我氏から見ると大臣でも、物部氏から見ると大連の入鹿と同様な物部大連だったのだろう。各国の氏族王も、物部氏や葛木氏、尾張氏などの男子を婿にする。そして、臣や連、直、国造を賜姓され、お墨付きを得る。それによって、地元では大連や大臣や天皇を自称したのだろう。関東の倭武天皇、実際は野洲朝廷()の将軍(都督)武、豐木入日子の子や孫が婿入りした王の子孫だろう。天皇と認められると、より多くの氏族に天皇の氏族が婿入り出来て、影響力が強まる。天皇位を奪われると、次の天皇の影響力のある氏族が取って代わる。

『日本書紀』は507年継体元年二月に「大伴金村大連爲大連」「物部麁鹿火大連爲大連」と記述する。すなわち、麁鹿火は麻佐良の後継の扶桑国王なので、継体天皇は大伴金村ということになる。意祁が法治国家として、中国や高句麗の律令を推進して、不満が高まったので、女王国を復興させたと考えられる。そして、扶桑国王麁鹿火と秦王国王金村と女王国の大臣継承者の袁本杼の三大実力者が神の朝廷の後継を争った。麁鹿火は正当な後継者の麁鹿火が扶桑国王を継承したのは当然だ。金村は倭彦を女王国王にして復権を目指し、麁鹿火は女王国大臣を袁本杼にしようとしたと思われる。

金村は袁本杼の妃の倭媛の義兄もしくは義父の倭彦を女王国王に擁立した。しかし、金村の計略が失敗し、袁本杼と姻戚関係の麁鹿火が連合したようだ。しかし、金村は女王国を自称した。継体七年、513年九月「遷都磐余玉穗一本云七年也」と袁本杼を玉穗宮に追い出して秦王国を建国した。そして十二月辛巳朔戊子に「詔曰朕承天緒獲保宗廟」と宣言した。

ただし、『日本書紀』の継体朝は、「天皇廿八年歳次甲寅崩而此云廿五年歳次辛亥崩者取百濟本記爲文」と3年のずれがある可能性がある。すると、継体七年、513年は3年のずれで516年12月に「獲保宗廟」、翌517年継体年号が発布されたのなら、よく合致する。「巨勢男人大臣薨」も529年ではなく、527年丁未年四月九日である。529年の薨は巨勢男人を襲名した太子だったのだろうか。

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