2023年10月9日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 継体天皇1

499年に意祁の妃の春日大郎女が女王国王になったと思われる。そして、500年に小前から、意祁が扶桑国を継承した。おそらく、小前の後継者が成人していなかったのだろう。そして、489年に真鳥が薨じてから、506年まで真鳥の大臣の継承者は袁本杼になっていた。しかし、金村は大伴朝廷復興のため、丹波國桑田の倭彦を女王国王にして、後ろ盾になろうとしたと思われる。倭彦が小前大宿祢の可能性がある。

しかし、扶桑国の麁鹿火が507年、元年春正月辛酉朔丙寅に袁本杼と倭比賣の娘の大郎女を女国王と承認したようだ。女王国王の父の袁本杼は正式な大臣になった。倭比賣は近江國高嶋郡の三尾君加多夫の妹、袁本杼の母の振媛の姪、袁本杼の従妹と考えられる。袁本杼は大臣、三国と丹波大国王を兼ねた御太君に就位したと思われる。破れた金村天皇は樟葉宮に逃れたと考えられる。畿内は実力者3名が拮抗する状態となった。

507年2月、大伴金村大連は、「乃跪上天子鏡劔璽符再拜」と天皇の璽を手にして即位した。天皇の璽を拝むのは天皇で、517年継体元年2月の事と考えられる。最後に天皇の璽を手にしたのは小前大連天皇の顕宗天皇だ。倭彦から璽を手に入れたようだ。そして、「無嗣」の天皇を嘆くなら武烈天皇が身近なのに清寧天皇を嘆く。それは、小長谷若雀は、「辛亥三月聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」と531年崩で子がいるからだ。この時、武烈天皇は「無嗣」でなく、「無嗣」だったのは、大伴室屋大連天皇で、皇后が飯豐郎女、飯豐郎女は子を生まなかった。だから、大伴室屋が「毎州安置三種白髮部」と白髮部を置いた。部を置くのは天皇である。

三月庚申朔の「宜備禮儀奉迎手白香皇女」は袁本杼の説話と思われる。すなわち、手白香皇女の娘婿が天国押波流岐広庭稲目と考えられ、大臣を継承した。手白香皇女の夫の袁本杼は2代目の袁本杼と考えられる。広国押建金日の薨が535年、天国押波流岐広庭が571年と36年の1から2世代差がある。継体八年春正月の「太子妃春日皇女」の記事がある。これは、意祁が麻佐良、すなわち、初代麁鹿火の小長谷若雀が天皇である。その義兄弟の2代目麁鹿火安閑になる皇太子の妃の春日皇女である。廣國押建金日は『古事記』に妃を記述しないので、春日皇女の夫でない。

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