2023年10月16日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 安閑天皇

531年の安閑元年夏四月癸丑朔、元年冬十月庚戌朔甲子は534年の日干支である。534年が507年元年の継体28年を示している。すなわち、534年小長谷若雀が「天皇崩于磐余玉穗宮」、535年安閑「天皇崩于勾金橋宮」である。秋七月辛巳朔は534年6月晦日で、九州の暦で俀国か倭国の説話と思われる。

閏十二月己卯朔壬午「幸於三嶋」は恐らく534年10月晦日と考えられる。それ以外なら、529年と539年にあるのみである。九州の暦で三島は三潴郡の三島神社あたりの事だろうか。九月甲辰朔丙午「詔櫻井田部連縣犬養連難波吉士等主掌屯倉之税も8月晦日で九州の暦である。桜井田部連の祖は穴門国造と同祖、犬養部は筑紫、豐國、火國などに置かれた。難波吉士は日香香の子孫、曾都毘古の神武東征の倭國造と同祖で、日臣と考えられる。

安閑二年12月の「以皇后春日山田皇女及天皇妹神前皇女合葬于是陵」は勾金橋宮で戦乱があったのだろうか。広国押建金日は三月十三日、安閑天皇が「十二月癸酉朔己丑」に崩じた。さらに、皇后が同時に、恐らく皇后の後継者の神前皇女も同時に薨じて葬られた。勾金橋宮が落城したのだろうか。

神前皇女は坂田大跨王の娘の廣媛の娘で、おそらく、坂田公の先の中皇子の娘か孫である。袁本杼の妃が多数記述される。しかし、広国押建金日と天國押波流岐廣庭の薨年代の差が1世代以上ある。袁本杼の子や孫の妃が記述されているようだ。すなわち、春日山田皇女や神前皇女の初代袁本杼の娘は、490年の大長谷若建継承から507年の大臣就任までの第一世代の子達だ。そして、507年に倭彦の妹と思われる倭比賣たちを妃にする、袁本杼の子の世代で分けられる。

三尾君の娘の倭比賣の子に大郎女、三尾君の娘の若比賣の子に大郎子を記述するが、名が無い。これは王位在位中に殺害され、後継者が名を付けられなかったことを意味する。すなわち、535年の「春日山田皇女及天皇妹神前皇女合葬」以降に女王国王の大郎女や、その兄弟の大郎子が殺害されたと考えられる。それが、継体25年539年の「日本天皇及太子皇子倶崩薨」の可能性が高い。

535年の「春日山田皇女及天皇妹神前皇女合葬」の春日山田皇女は、2代目麁鹿火の小長谷若雀の妃である。継体帝目大連の妃の春日山田皇后は欽明天皇即位前紀に記述される。欽明の即位の時に山田皇后に即位を請願したが断られている。おそらく、実態は逆で、欽明天皇が奪ったのだろう。後継者の目連は大臣、山田皇后が即位すれば、目大臣が大連になれたと思う。

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