2023年10月25日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 欽明天皇1

  欽明七年春正月甲辰朔と欽明九年正月癸巳朔は12月晦日、共に百濟との交渉で、九州の記事のようだ。朝鮮半島では、倭国は500年、炤知麻立干二十二年に「倭人攻陷長峰鎭」と侵略後では、608年に隋文林郞裴淸が倭国に向かったことの記事があるだけだ。実質の外交は653年、 義慈王十三年に「王與倭國通好」、そして、白村江の戦乱につながる。500年の倭王は武王で、478年順帝昇明二年に「東征毛人五十五國西服眾夷六十六國渡平海北九十五國」と述べる。九州の眾夷をまとめ、東の毛人五十五国は眾夷の日臣大伴氏を武王の配下と見做したのだろう。しかし、大伴氏が安定を崩し、倭国が分裂した。そして、戦乱の結果、若い継体帝の孫と孫娘の婿が残った。それで、540年に講和し、541年に百濟と新羅もそれに倣った。

倭王武とその姻戚と思われる大伴室屋によって、朝鮮半島と日本列島南部、関東まで、名目上手中にした。478年に『宋書』の順帝昇明二年の「遣使上表」の上表文で宣言していた。ところが、大伴室屋朝廷が崩壊し、意祁は新羅の宗主国としての秦・扶桑国を復興した。新羅は宗主国秦が復興し、倭が新羅を侵略できなくなったようだ。500年炤知麻立干二十二年に「倭人攻陷長峰鎭」以降、倭の侵略が無い。そして、倭王武が502年、天監元年「鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」と綬号されているので、その後、石井が継承している。石井は綬号されていないので、綬号できる力が無くなったようだ。その結果、新羅は弱い秦と倭を見ると、503年、智證麻立干四年に、「始祖創業已來國名未定・・・號新羅國」と独立した。国号が無かったということは、国家として認められていなかったことを示す。そして、石井が薨じて、倭が分裂した。すると、秦には元号があったので、それに倣って、536年、法興王二十三年に「始稱年號云建元元年」と建元元年を宣言した。しかし、551年眞興王十二年の「改元開國」以降取りやめた。それは、北齊武成皇帝河清四年、565年、眞興王二十六年に「使持節東夷校尉樂浪郡公新羅王」の綬号の為だ。綬号される国に元号は有り得ない。日本では、倭国が綬号した、が、畿内政権は中国と対等だったから、元号が続いたと考えられる。倭国は、大業六年には「倭國遣使貢方物」と朝貢したが、倭が政権に就くと、『舊唐書』貞観五年、「不宣朝命而還」と決裂している。そして、俀国も「法興元」という元号を使い、それは隋に臣従してないから使った。

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