2023年10月2日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 武烈天皇

大伴金村連爲大連」は継体七年十二月辛巳朔戊子の「朕承天緒獲保宗廟」で朝廷を開いた。継体二十年、実際は継体七年に「遷都磐余玉穗一本云七年也」と磐余が首都である。そして、517年に継体年号に改元した。おそらく、女王国が崩壊したとおもわれ、女王名が大郎女と役職だけで名が無く、後継が存在しなかったから、命名出来なかったのだろう。袁本杼の義父の三尾君の加多夫は大海部直の祖の尾治多与志連、倭比賣は妹の兄日女と思われる。おそらく、尾治多与志連が倭彦王で、大海部直、すなわち、528年、袁本杼の義子の広国押建金日の大倭王(女王国)の大臣になったと思われる。広国押建金日が勾大兄と呼ばれ、兄日女とよく合致する。そして、507年に、おそらく、麁鹿火大連の妹の影媛・春日娘子を妃に小長谷若雀が継承した。

武烈朝は531年「大歳辛亥三月」に「日本天皇及太子皇子倶崩薨」と崩壊した。『古事記』は武烈朝の小長谷若雀が記述したと考えられる。扶桑国は日干支で暦を記録せず、年月日を使用した。中国の宋朝の影響を受けたのだろう。しかし、年干支が解るだけの記録は、絶対年代が解らず、紀伝体の史書になってしまった。そのため、雄略紀から武烈紀は後から絶対年代で記録した蘇我氏と、理解がずれたと思われる。

そのため、顕宗天皇の意祁は名君だが、武烈天皇の意祁は暴君になる。この意祁は親子、布都久留と麻佐良の違いである。しかし、麻佐良は暴君ではないだろう。法治国家を目指し、理不尽な盟神探湯や骨卜などの宗教的占いからの脱却である。『筑後国風土記』にやはり衙頭で裁判する石井君の説話があり、やはり「暴虐」と記述する。おそらく、処刑方法も中国や高句麗から取り入れたので、見せしめの処刑となり、残虐になったと思われる。ただし、盟神探湯は実行しなかったと思う。もし、実行した後で無罪と解ったら、天皇の権威が失墜する。

武烈六年九月乙巳朔は九州の日干支で、「傅國之機立子爲貴」は倭の武王の石井君への継承と思われる。『梁書』に天監元年502年、「高祖即位進武號征東大將軍」と武王は生存している。そして、王が交代すると訪中して、受号されるが、石井は畿内政権に妨げられて、断念したと思われる。

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