武烈天皇は『舊事本紀』「神皇本紀」に二年巳卯春三月丁丑朔戊寅「麻佐良連公為大連」とある。すなわち、500年から麻佐良が大連天皇である。武烈元年は499年なので、麻佐良が武烈天皇ではない。『日本書紀』には武烈天皇即位前紀に「以大伴金村連爲大連」と金村が大連天皇と記述されている。しかし、『日本書紀』の武烈前紀に鮪の説話が記述される。それを、『古事記』は志毘と白髪天皇の皇太子の意祁の記録だ。すなわち、2代目木蓮子の意祁の布都久留が、実際は飯豐郎女が室屋から朝廷を奪ったと思われる。従って、武烈前紀は『古事記』の意祁の説話と小泊瀬稚鷦鷯の説話が入り乱れている。
鮪と小長谷若雀が取り合った麁鹿火大連の娘の影媛は、実際は意祁と志毘の取り合いである。影媛は春日大郎女で、意祁が勝利し、麁鹿火大連の妃は春日山田皇女で、意祁の義子である。
大伴氏は日向諸縣君の家系の人物で、物部氏では、目大連の家系と考えられる。すると、金村・目大連は「継體天皇御世為大連」とあるように、継体天皇ということになる。金村・目大連は539年十二月庚辰朔甲申に「物部目連公為大臣」と政権交代が起こった。室屋・目大連は458年に「神皇本紀」「磐余甕栗宮御宇天皇御世為連」と大連になった。そして、八釣宮から連に降格し、「物部目連公此連公継體天皇御世為大連」と継体大連天皇が復活した。
『梁書』には齊永元元年に「名國王爲乙祁」と乙祁が499年に扶桑国王になっている。すなわち、乙祁・意祁が武烈天皇とわかる。袁祁は磐城王の娘の難波王の夫である。意祁の父の布都久留の妃が飯豐郎女と考えられ、意祁は袁祁の甥にあたる。布都久留・白髪は吉備上道臣の娘の初代難波王の婿で磐城王の可能性が高い。従って、意祁は丘稚子で袁祁の義兄弟にあたる。
雄略天皇は大伴連室屋、458年即位、478年布都久留・飯豐郎女が天皇に即位、480年に真鳥が女王国の天皇になった。485年に小前が2代目室屋から扶桑国の皇位を奪取した。そして、488年には真鳥が扶桑国の皇位も奪取し、499年に皇太子の志毘を殺害して、実質、皇位を奪取した麻佐良・意祁が即位したと思われる。
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