顕宗天皇は顯宗元年己丑春正月己巳朔の『舊事本紀』「神皇本紀」に「物部小前宿祢為大連次為大宿祢」と記述し、小前が大連天皇である。但し、「天孫本紀」には「石上穴穂宮御宇天皇御世元為大連次為大宿祢」と記述される。『舊事本紀』は続けて、武烈二年巳卯春三月丁丑朔戊寅に「麻佐良連公為大連」と記述する。すなわち、485年に小前が皇位に就いたが、途中に退位させられた。そして、499年まで大宿祢、すなわち、大国王だったと述べ、499年に薨じたようだ。
『日本書紀』も498年仁賢十一年八月に「億計天皇崩大臣平群眞鳥臣以大伴金村連爲大連」と眞鳥が金村を大連天皇にした。真鳥大連天皇は金村に女王国を任せたということだ。金村は飯豐郎女と大伴室屋の清寧朝を引き継いだ。そして、飯豐郎女の弟の袁祁・小前は、恐らく、雄略天皇(大伴室屋)の子の磐城王の娘の、『古事記』に記述の難波王を妃に即位した。当然、次は『日本書紀』に記述する磐城王の子の丘稚子・金村が後継者である。しかし、年齢が若く金村が即位できず、皇位が木蓮子に継承されてしまったと考えられる。2代目小前は大宿祢とあるように大国王、木蓮子の妃は「御太君祖」の娘、三国と大国の王の祖だ。
初代圓、伊耶本和気は、水歯別と思われる葛城葦田宿禰の娘の黒比賣を妃に、市辺押磐が生まれた。黒比賣が都夫良郎女の可能性が高く、丸迩臣許碁登、すなわち、女王国の姻戚、八田皇后の姪だろうか。子の市辺押磐は蟻臣が伊耶本和気の妹か娘に婿入りした人物と思われ、荑媛を妃にした。それで、市辺押磐は大臣圓を継承した。市辺押磐が殺害されたとき、御馬王も殺害され、御馬王が婿で蟻臣なのだろうか。そして、袁祁と意祁は吉備上道臣を頼った。
元年二月戊戌朔壬寅は九州の暦で、前播磨國司來目部小楯が九州から葛木氏の東征で來目部の姓を得たと考えられる。父の押磐を殺害した仲間の狹狹城山君韓帒宿禰が許された。韓宿禰と韓を統治していた。しかし、おそらく、押磐殺害によって、倭宿禰とよばれたので、論功で野洲王になっていた。そして、顕宗二年に「賜本姓狹狹城山君氏」と狹狹城山君を追認した。狹狹城山君は真鳥大連の臣下なので、真鳥の記事だろう。
韓帒宿禰から倭帒宿禰となったのは、蘇我韓子が韓宿禰になった、もしくは逆、からなのだろう。また、曲水宴を485年486年487年と催しているが、吉備上道臣仲国王の記事の可能性が高い。曲水宴はこれ以降記述されず、吉備上道臣が没落したのと合致する。仲国は489年、「難波小野皇后恐宿不敬自死」と、蘇我氏の武廣國押稚日本根子によって滅ぼされたようだ。廣國は大漢国、大漢国は「無兵戈不攻戰」と扶桑国同様に戦いを好まない、平和な国の様だ。仲国朝の顕宗二年十月、「天下安平」と平和で裕福な国を継承した。廣国は、国が洲・島のことなので、広島だろう。
顕宗三年の月神や日神が「我祖高皇産靈」と述べるように、物部氏の祖神、饒速日の父が我祖と述べている。我祖は「天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊」というように、日(神)が譲り、月(神)が禪ずる、狭霧國の狭霧尊が祖だ。そして、高国王として生まれた神霊、狭霧國は高国、すなわち高島、琵琶湖西岸の高倉下の国である。
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