『古事記』は意乎巳(大臣)家の史書と解った。穴穂はいつ崩じたか『古事記』は記述しない。それは、大臣家の傍流だからと考えられる。『舊事本紀』に安康天皇元年十二月己巳朔、「木蓮子連公為大連都遷石上謂穴穗宮」とある。木蓮子は「天孫本紀」に「物部木蓮子大連公此連公石上廣髙宮御宇天皇御世為大連」と仁賢天皇大連である。そして、478年、雄略二十二年正月己酉朔、「物部布都久留連公為大連」まで物部氏は大連天皇が空白である。ただし、『舊事本紀』「天孫本紀」は「大前宿祢連公此連公石上穴穂宮御宇天皇御世元為大連」と記述する。すなわち、453年正月に大日下麥入大連が崩じた後、大前が大連天皇に即位し、穴穂に殺害された。それは、木梨之輕と輕大娘の子の皇位継承者の2代目木梨之輕太子が20歳前で即位できなかったからと思われる。それで、男浅津間若子大前大臣が大連になったと思われる。
しかし、454年正月に穴穂が二人を殺害し、大日下の皇后の長田大郎女を奪って、皇位に就いたと記述する。しかし、大連の継承者の目弱王は太子にもなれない年齢、長田大郎女は女国王で、畿内の天皇継承権が無い。大臣は大前の甥の市辺押磐が圓を継承したと思われる。市辺押磐が石上神宮を祀る木蓮子で、石上宮の物部氏の宮主を、物部氏は木蓮子大連と呼んだと思われる。それは、物部氏は「大夫者今大連大臣」と大臣も大連も同等と考えていたからと思われる。それで、後継者がいない時期は飯豐郎女が石上宮主を引き継いだ。
大連は大前なのに、木蓮子と記述され、478年大連は布都久留、785年大連が木蓮子と記述される。おそらく、穴穂宮が石上にあったから木蓮子、布都久留は市辺押磐子の義兄弟と考えられる。穴穂のクーデタは、大長谷若建が天皇の大日下の妹の若日下部王を妃にしようとしたことによると思われる。葛木氏をバックにした長田大郎女と、日向諸縣君をバックにした若日下部王の反目である。
それで、女国王は長田大郎女、No2の大臣は市辺押磐圓大臣である。若日下部王を要求した根使主は坂本臣の祖で、紀伊国造宇豆彦の国の山背國紀郡の出身だ。山背から平群県紀里に遷って平群木兎宿祢が生まれた。紀伊国造、当然、山背木国造は丸迩臣で、丸迩臣の許碁登の娘が水歯別の妃の都怒郎女だ。『紀氏家牒』に「紀伊国造宇豆彦道彦男也女宇乃媛」の子が角宿祢、水歯別が婿の角宿祢だろうか。角宿祢の子と思われる根使主は若日下部王の婚姻を邪魔し、義兄弟、都夫良郎女の夫と思われる圓と同じ側である。ただし、根使主は結果的に、大日下を滅ぼし、若日下部王を得て、平群氏の本家だったので許されたようだ。
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