2023年9月20日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 清寧天皇1

  清寧天皇は清寧元年庚申春正月戊戌朔壬子「室屋大連平群真鳥大連並如故」と記述された。すなわち、480年、真鳥が大連天皇になった。大長谷若建が「己巳年八月九日崩」と489年に崩じている。しかし、485年、顯宗元年己丑春正月己巳朔に「物部小前宿祢為大連」と顯宗小前大連天皇が即位している。それでも、498年に真鳥が「專擅國政欲王日本」と記述され、2朝の分裂を示している。すなわち、489年から498年までも2代目真鳥が皇位を継承したようだ。それは、480年から498年まで、女王国神の朝廷が女王の国から男王の国に変貌したことを示す。

498年仁賢十一年八月に「大臣平群眞鳥臣專擅國政」と国政を担っていたと記述されている。本来女王が担うべき国政を、真鳥が担ったとの意味だろう。そして、畿内の扶桑国は室屋・目大連が引き続き大連天皇だったが、跡継ぎが無く、小前に皇位を継承した。飯豐郎女が恐らく妃だった可能性が高い。飯豐郎女は「於忍海角刺宮臨朝秉政自稱忍海飯豐青尊」と朝政にあたった。「冬十一月飯豐青尊崩」と清寧天皇が一月に崩じても天皇が交代しなかったのに、飯豐が崩じると皇位継承が起こった。皇后が生存していれば、その親族が皇位を継承して、宮は変わらない。しかし、首都の宮の主が居なくなると、違う宮の皇后と天皇が即位する。

『古事記』には大長谷若建の妃に吉備上道臣の娘の稚姫が入っていない。すなわち、この稚姫は室屋大連の妃と考えられる。葛木氏の神武東征の立役者の一人の娘で、大伴氏の盟友である。すなわち、2代目室屋を巡って、星川皇子と磐城皇子が皇位を争った。星川皇子が破れ、磐城皇子が勝利して2代目室屋を襲名したと考えられる。すなわち、室屋は角刺宮大連天皇の襲名した名のようだ。そして、室屋は飯豐皇女を妃に、小前は磐城皇子の娘の難波小野王を妃にしたと考えられる。しかし、489年に大長谷若建が八月に、難波小野王が九月に「恐宿不敬自死」と同じ頃に薨じた。それは、2代目真鳥と吉備上道臣との間で戦乱があった結果なのではないだろうか。

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