2023年9月8日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 雄略天皇前期3

大伴大連を、私は大日下の義父の日向諸縣君の孫と考えた。大伴氏は日臣、日向諸縣君の日向は高千穂宮から日向の名と共に諸縣に持って行った日臣と考えた。そして、もう一人よくわからない人物の物部目が存在する。系図では清寧・継體・欽明の大連である。ところが、史書部分では、欽明時に大臣、雄略時は「大伴連室屋物部連因為大連」と表記が異様だ。普通「麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」、「大伴大連爲大連物部麁鹿火大連爲大連」のように共に「為大連」か「並びに」を付加する。

しかも、『日本書紀』も清寧の大連は室屋、継體は金村と麁鹿火、欽明は金村と尾輿である。目大連を全く記述しない。すなわち、物部目は大伴氏の可能性が高く、物部目の妃を記述しない。史書に記述されているから書かなかったのではないだろうか。そして、大臣大長谷若建は489年己巳八月九日に崩じた。大長谷若建は丸迩の佐都紀臣の娘の袁杼比賣を妃にしている。大長谷若建の後継者は袁本杼で、袁杼比賣と同地域の人物と思われる。

 『紀氏家牒』「巨勢川辺宿祢亦曰軽部宿祢」と巨勢氏は軽部の王だ。従って、軽部が木梨輕の為に定められたのだから、木梨輕もしくは輕大郎女の縁者だ。男浅津間若子大前大臣は木梨輕を守って薨じ、麥入の義父として、大連天皇を兼務した。その大前大連天皇が定めた軽部の宿祢が巨勢氏なのだから、大前の子と思われる。軽部宿祢が住む軽里星河辺の上流、川上の春日に袁本杼や袁杼比賣がいたと思われる。袁杼比賣の父の佐都紀臣は圓大臣の姻戚と思われる許碁登臣の子と思われる。

 『紀氏家牒』には紀伊国造莵道彦の娘の山下影媛の子の紀武内宿祢の妃が記述されている。角宿祢の母の紀伊国造宇豆彦道彦男の娘の宇乃媛と襲津彦宿祢の母の葛城国造荒田彦の娘の葛比売だ。すなわち、『紀氏家牒』は比古布都押之信と紀伊国造の家系の角宿祢と尾張氏竟富那毘の家系の味師内・襲津彦宿禰の家系を記述した。その他の平群氏、平群木兎宿祢は角宿祢の義兄弟と考えられる。すなわち、平群木兎宿祢は宇乃媛の姉弟と考えられる。従って、母を記述しない、波多八代、許勢小柄、蘇賀石河、若子の宿禰達はそれらの姻戚の王達と考えられる。たとえば、男浅津間若子宿祢が若子宿禰、妻の忍坂大中比賣が宇乃媛の孫に当たるのだろう。そして、紀伊国造は丸迩臣で宇乃媛の家系、許勢小柄が姉弟と考えられる。もし、本当の武内宿祢の子達なら、活躍年代の矛盾、『紀氏家牒』の記述の矛盾が奇異である。

0 件のコメント:

コメントを投稿