2023年9月27日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 仁賢天皇

 仁賢天皇は『日本書紀』も『舊事本紀』の「神皇本紀」も大連を記述しない。「天孫本紀」には「物部木蓮子大連公此連公石上廣髙宮御宇天皇御世為大連」と記述されるが、これは、物部氏の当主に過ぎない。顕宗小前大連天皇の後継者は小前を襲名して大宿祢、大国王となったようだ。小前は田部連の祖、田部は許勢男人大臣の娘の紗手媛が給った。489年に袁本杼が大臣を引き継いでいるので、袁本杼が婿になって、小前を襲名したのだろうか。木蓮子は御太君の祖の大宿祢に婿入りしたと思われる。春日袁杼比賣が春日和珥臣深目の娘の童女君、袁本杼の姉と思われ、大臣を継承した。木蓮子の妃、御太君の祖の娘の里媛が袁杼比賣の娘の春日大郎女、子が乙祁だ。

その間、498年仁賢十一年八月に「大臣平群眞鳥臣專擅國政」と国政を担っていたと記述されている。『梁書』に「扶桑國者齊永元元年・・・名國王爲乙祁」と記述され、499年に意祁が畿内の朝廷の王となった。『舊事本記』も500年、武烈二年巳卯春三月丁丑朔戊寅「麻佐良連公為大連」と麻佐良が即位している。女王国王は武烈即位前紀に「以大伴金村連爲大連」だ。

すなわち、498年まで、真鳥が女王国と扶桑国を統治していた、仁賢天皇である。490年に初代真鳥が崩じ、2代目真鳥が継承し、巨勢袁本杼(男人)大臣が女王国を統治したと考えられる。『古事記』では志毘を志毘臣と呼び、志毘の家が朝廷、志毘が皇太子である。「朝廷人等者旦参赴於朝廷晝集於志毘門」と、夜明けまで天皇に、その後皇太子志毘の宮殿に向かう。『隋書』「俀国伝」の「天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟」と同じである。すなわち、実質の俀国王は太子の利歌彌多弗利、扶桑国王も実質の王は太子志毘だ。同様に、朝廷は夜間の天皇が神とそれに仕える皇后、実質の昼間の天皇は皇后の父や兄弟の大連である。

仁賢元年正月辛巳朔乙酉の天皇即位、十月丁未朔己酉の葬天皇の日干支は九州の暦だ。仁賢朝の大連は真鳥が継続し、木蓮子大連は安康元年から襲名された名だ。小前も大宿祢を継承して、継承された大連に死亡記事や葬送記事は記述されない。すなわち、この即位、葬送記事は他の王朝の説話と考えられる。顕宗朝が崩壊した年なのだから、大漢国の記事の可能性が高い。大漢国王は、吉備上道臣の可能性が高い。『日本書紀』には白髮に武廣國押を挿入しているが、『古事記』には「武廣國押」がない。従って、「難波小野皇后恐宿不敬自死」によって、吉備上道臣没落後の仁賢期と考えられる。

二月辛亥朔壬子の「立前妃春日大娘皇女爲皇后」は2代目真鳥の皇后の記述と考えられる。春日の丸迩佐都紀臣の娘の袁杼比賣の兄弟が深目、深目の娘が童女君、2代目真鳥の皇后と思われる。深目の娘の童女君の女君は女国王大娘女を意味し、初代春日大娘女と考えられる。初代真鳥が480年に即位し、488年2月に2代目真鳥が継承し、489年八月九日に初代真鳥が崩御したと思われる。

仁賢三年春二月己巳朔の「置石上部舍人」は石上王の木蓮子大連の事績なのだろう。仁賢五年春二月丁亥朔辛卯の「佐伯部仲子之後爲佐伯造」は小前大宿祢の記事かもしれないが、2代目真鳥の謝罪なのだろうか。仁賢六年秋九月己酉朔壬子からの「遣日鷹吉士使高麗」がある。これによって、「貴人第一者爲大對盧第二者爲小對盧」の官位を扶桑国が取り入れたようだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿