応神四一年にも筑紫國御使君の祖の「蚊屋衣縫」説話があったように、呉衣縫は筑紫で生産されたようだ。丁度雄略期、『日本書紀』を記述しているときに、「今呉衣縫」と記述したその「今」だ。その技術を、これ以降、多くの臣連たちに分散し、全国で絹織物を造ったと述べている。小子部の絹糸生産があっての分散で、扶桑の皮の紙も大量に生産された。「秦」の「はた」も、元々、秦などと書いておらず、「波多」などの表音で、推古朝の頃、秦王国の秦をあてたようだ。『日本書紀』での初出が雄略朝からで、記述したのは推古朝だ。
表意文字は漢字の意味や漢字の使用例を知ったうえで使われる。和迩吉師が持ってきた千字文によって表音、読みは理解できただろう。そして、共に持ってきた論語や『三國志』の内容が記述されるように史書も中国語として読んだと思われる。中国人は志賀高穴穗朝大神八国を大倭国と理解した。それを、泊瀬朝倉朝は大臣の大国と神の朝廷の倭国と理解した。そして、蘇我氏が俀国から粕屋を奪って倭国を建国した。さらに、倭国が秦王国を滅ぼし、天智天皇が倭国朝廷を滅ぼして日本を建国した。それで、日本イコール倭と理解した。すなわち、倭は「や」や「あま」の表意文字にした。これが『日本書紀』崇峻紀までの「倭」字の意味の変遷である。
雄略十四年四月甲午朔の「根使主爲共食者」の説話は377年4月1日の日干支と考えられる。「根使主所著玉縵」は雌鳥皇女から佐伯直阿俄能胡が奪った神の朝廷の王の璽の説話の流用と思われる。根使主は木角宿禰の子、神の朝廷の王の璽を近江山君稚守山の妃が奪った。山君が波多八代宿禰で、秦酒公の祖父だろうか。難波吉士日香香は反正天皇伊莒弗の義父の倭國造の祖の比香賀君と考えられる。日香香など探さなくとも、雄略八年や九年に縁者の赤目子や日鷹が記述されている。
雄略廿三年夏四月の百濟東城王の説話は日本の王の観点と『三国史記』の王の観点の違いを示している。『三国史記』は文周王の後継王がその長子の三斤王と見做している。しかし、『日本書紀』は三斤王が「年十三歲」で王とは見做さなかった。「拜王弟昆支為內臣佐平」と弟の昆攴王が內臣佐平となった。そして、文周王死後、「軍國政事一切委於佐平解仇」と日本側から見ると、昆攴王が内臣イコール王と見做した。日本ではこれが常識で、内臣である大臣や大連が天皇だったからと思われる。
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