雄略五年の「四月呉國遣使貢獻」は『宋書』孝武帝の「三月壬寅・・・興爲安東將軍」記事の倭の資料だろうか。三月晦(朔)の日干支を変換するとき、四月朔の日干支にしたのだろう。盖鹵王の治世は治世18年472年まで平穏で、日本との関係がよかったのだろう。『百濟新撰』も日本の史書と同様に、盖鹵王の子、文周王の弟の昆攴君なのに、文周王を二代目盖鹵王と見做して、「盖鹵王遣王遣弟昆攴君」と記述している。これを理解すれば、百年以上生きる人物の意味が解る。日本も朝鮮も同じ文化圏なのだから、当然である。
雄略六年の「泊瀬小野」の命名説話も奇妙だ。泊瀬朝倉宮で「遂定宮焉」と宮に決めて即位した。しかし、恐らく現代の泊瀬、隠山と人が居ない泊瀬に、首都のはずの泊瀬の小野と命名している。すなわち、推古朝時の泊瀬と違う場所に首都泊瀬はあったことが解る。地名は人と共に動くのである。「賜姓爲少子部連」説話の三月辛巳朔丁亥の日干支は間違いの日干支である。小子部連は神八井耳が祖で、大臣や火君、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造など、全国の王の祖が始まりだ。すなわち、道臣と共に畿内にやってきた人物、九州の暦と解る。養蚕説話なので、扶桑国の始まりと考えられる。『日本書紀』の安康天皇以前に記述されず、『古事記』に記述される小子部連は雄略以降の資料だ。
『梁書』の扶桑国に「有文字以扶桑皮爲紙」と扶桑の木の皮を紙替わりにして、文書が豊富に有ると記述している。扶桑の木を幻の植物としているが、『山海經』では海外東經の「湯谷」記述される。海外東經は三国以北の北陸に相当する地域である。そして、「湯谷」の傍に青丘國が存在し、「衣絲帛」と絹織物を着用していると記述する。「絲」を記述するのは海外北經の東北地方にある「歐絲之野」だけで、中国には存在しない。中国に桑は記述するので、野生の蚕で絹糸を作ったと思われる。日本では「三桑無枝」と枝を切り取って、「女子跪據樹歐絲」と女子が跪いて吐き出した糸を樹に巻いていたようだ。養蚕を、小子部連が人を集めて、多人数を取り仕切ったのだから、扶桑の皮が多く採取できた。それを、『梁書』が記述するように紙替わりにしたのだろう。そして、その紙に『日本書紀』の安康紀まで書き留めた。
その小子部連が七年秋七月甲戌朔丙子に大物代主神の璽を大伴大連天皇に献上した。代主神、大物の事代主神である。そして、曾都毘古の東征の中心人物の道臣や小子部連は神武東征説話とおり、仲国や吉備小国が協力したようだ。吉備でも、仲国も勢力下の上道臣が中心だったようだ。それで、翌月、正式に即位した大伴氏は、吉備小国の宗家の難波王の兄彦の分家の、「國造吉備下道臣山」を排除した。『古事記』では大長谷若建の妃に稚媛は含まれず、大伴大連天皇の妃であることが解る。下道國造は兄彦、吉備臣の祖の御友別の子、応神朝の難波の兄媛の甥である。兄媛は高城入姫と思われる。雄略九年春二月甲子朔の「遣凡河内直香賜與采女」は兄媛の末裔の河内王の説話だ。同族と思われる同地域の難波吉士日香香は日臣香香の意味かもしれない。
0 件のコメント:
コメントを投稿