464年八年春二月の「新羅國背誕苞苴不入」の記事がある。道臣や小子部連、吉備上道臣は倭国との繋がりがあったようだ。『三国史記』慈悲麻立干五年462年「倭人襲破活開城虜人一千而去」、翌年「倭人侵歃良城」とある。倭国が新羅を侵略した。倭国侵略時、雄略九年465年の新羅戦の大敗北は463年の『三国史記』「擊大敗之」記事の可能性がある。この戦いは、3年間の大戦だった可能性がある。今まで、新羅・百濟と同盟関係だった、物部日本の秦に対して、葛木扶桑国は倭と共に親百濟で、新羅と戦ったようだ。
さらに、464年八年春二月の「桧隈民使博徳使於呉國」の記事がある。また、『梁書』に457年宋大明二年の「流通佛法經像敎令出家」という記事がある。すなわち、この時の南朝呉に使者博徳が遣ってきて、仏教の流布を伝えたと思われる。427年薨の大別の邸宅に577年に「安置於難波大別王寺」と像を安置する寺があった。寺を造り始めたのが577年で、この年に大別王の寺では早すぎて奇異である。しかも、「大別王未詳所出也」と、この大別王が詳しく解らないとある。そして、大別王は「自稱爲宰言宰於韓盖古之典乎」と今では使わない「宰」の役職名を使っている。すなわち、古い資料だったことを白状し、427年薨の大別の事と解る。百濟には384年、「胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮內禮敬焉佛法始於此」と百濟仏教が始まった。457年に既に仏典が流布しているのだから、大別が寺を造っても不思議でない。
身狹村主青が雄略二年、雄略八年「使於呉國」、雄略十二年「出使于呉」が博徳とセットで記述される。また、雄略十年、雄略十四年も呉からの帰国記事で記述される。博徳は斉明・天智朝でも外交を務める壱岐の倭国の襲名した人物のようだ。身狹は蘇我大臣稻目宿禰が「於倭國高市郡置韓人大身狹屯倉高麗人小身狹屯倉」と屯倉を置いた。すなわち、この説話は隋朝以降の倭王蘇我氏の説話と解る。曾都毘古の娘婿の子、朝鮮の多沙城で生まれたと思われる韓子宿禰の姻戚が身狹なのだろう。吉備上道臣田狹もやはり多沙城で生まれた可能性が高い。
蘇我氏は蘇我石河宿祢が大倭国高市県蘇我里で、蘇我氏の子として生まれた。子の満智宿祢が曾都毘古の婿となり、多沙城で、韓子宿祢が生まれたと思われる。蘇我石河宿祢が曾都毘古の義兄弟の立場となって、建内宿禰の子に数えられたのだろう。蘇我石河宿祢は「蘇我臣川辺臣之祖也」で、満智が『日本書紀』履中二年に平群木莵宿禰と共に蘇賀滿智宿禰が出現する。川辺臣の川辺は巨勢川辺宿祢が生まれた「軽里星河辺」の氏族である。その河辺に石河宿祢の子が婿入りして、巨勢川辺宿祢と呼ばれたのではないだろうか。川辺宿祢の義父が建彦借祢で軽の建彦、許勢臣雀部臣輕部臣の祖の小柄宿禰なのではないだろうか。小柄宿禰の子が輕部臣伊刀、兄弟が巨勢の乎利である。
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