長谷朝倉宮雄略天皇に物部氏の大連は存在しない。『舊事本紀』に478年、雄略二十二年正月己酉朔に「物部布都久留連公為大連」と大連になった。しかし、480年には室屋大連と真鳥大連に交代している。その事件と思われるのは、雄略天皇が病に伏せると、「星川得志共治家國」と吉備上道臣と星川王が皇位を奪取した。すなわち「大藏之官」を取ることが皇位に就くことだったと思われる。「大藏之官」を取ったのが478年だ。
『古事記』に記述されない、吉備上道臣の娘の稚姫は大長谷若建の妃ではない。清寧天皇は白髪大倭根子とあるように、平群氏が天皇である。大倭根子は葛木氏の天皇の呼称なのだから。従って、布都久留の妃の太姫は吉備上道臣の娘の可能性が高い。小前大連は大連から大宿祢と大国王になっていて、太姫は大姫と考えられる。それでは、長谷朝倉宮大連天皇は誰かというと、『舊事本紀』は雄略二年丁酉春三月庚戌朔壬子の記事がある。この日干支は雄略元年の年干支と日干支で実質安康3年が元年だったのだろう。
そして、『舊事本紀』は「平群真鳥臣為大臣以大伴連室屋物部連因為大連」のように、室屋と因という不明な人物を記述する。因を目と解釈している。しかし、目は磐余甕栗宮大連・継体朝大連と記述している。従って、実態は大伴連室屋が天皇である。大伴氏は「竺紫日向之高千穂之久士布流多氣」に天降った天忍日の末裔だ。大伴氏が天皇で、『日本書紀』を記述したのだから、当然である。そして、神武東征の時、すでに、日臣と賜姓され、高千穂宮から宇佐へ侵略した人物だ。神武東征説話は中臣、日臣、和珥君が宇佐や安芸に侵略した説話だった。
大伴氏は日臣・道臣の末裔である。大伴氏の初出は倭建に協力した説話だ。そして、大伴連賜姓後の人物は大伴武以連、この人物は大臣賜姓より前の武内宿禰と共に記述される。倭建は熊襲建から名を貰った。曾都毘古の名も日向髪長太田根の子の日向襲津彦から貰ったと思われる。武内宿禰大臣賜姓が350年、それ以前に、曾都毘古が日向氏に婿入りしたのならよく合致する。そして、その日向氏が日臣の日向君と考えられる。日向諸縣君の娘の髪長比賣は大長谷若建の妃の長日比賣の母だ。大長谷若建は平群真鳥大臣、女国王は、おそらく、妹の橘大郎女と考えられる。女国は『梁書』に滅びた記述がないので、女国は継続したので、大郎女が女国王の呼称のようだ。
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