2023年9月11日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 雄略天皇1

  元年春三月庚戌朔壬子の「草香幡梭姫皇女爲皇后更名橘姫」とあるように、若日下部は大長谷若建の妃だ。そして、女国王も皇后と同名の橘大郎女で、恐らく同一人物である。嫁や婿も実子に入れたのが『古事記』・『日本書紀』の系図だ。稚足姫(𣑥幡娘姫)が「侍伊勢大神祠」と橘大郎女の後継者となったと思われる。大連天皇は室屋、女王国の皇太子と同等の大長谷若建大臣眞鳥だ。室屋が天皇位を奪取、日向諸縣君を後継し、波多毘能大郎子の子の可能性が高い。大伴氏の祖の道臣と思われる、日向諸縣君は「作大室於忍坂邑」と大室を作り、「道臣命宅地居于築坂邑」と領地となった。この坂は息長氏の領地も坂田で、神の朝廷伊勢、屋主の住む近辺である。

雄略二年「百濟池津媛」の「婬於石河楯」説話は蘇賀石河宿祢の説話と考えられる。石河宿祢の孫が韓子、曾孫が高麗と池津媛の子や孫のような名だ。石河宿祢は履中から雄略まで仕え、朝鮮半島で過ごした曾都毘古の妃の葛比売の家系の人物と考えられる。百濟葢鹵王はこの年、宋から「冠軍將軍」に任命され、新羅や宗主国の日本とも友好関係にと考えていたと思われる。しかし、倭と友好関係の蘇賀氏が邪魔をしたのではないだろうか。百濟と日本との友好を失敗させて、翌年、『三国史記』「倭人以兵船百餘艘襲東邊」と倭が新羅を侵略した。「百濟新撰云己巳年葢鹵王立」記事は、葢鹵王即位が安康二年乙未、己巳年は仁賢二年である。葢鹵王即位は455年、大長谷若建の大臣就位年である。己巳年は大長谷若建の薨年である。従って、この説話は大長谷若建の薨去時の記事の流用と考えられる。

幸御馬瀬命虞人縱獵」は現在の御馬瀬が伊勢神宮にあるように、神の朝廷、伊勢遺跡にあったと思われる。近江來田綿蛟屋野で市邊押磐を殺害した記事で、雄略二年ではなく安康二年の可能性がある。阿閇臣國見が栲幡皇女を陥れた事件は丸迩佐都紀臣深目の計略なのだろう。深目の娘の袁杼比賣は童女君と呼ばれた女王で、春日に居た。雄略四年八月辛卯朔戊申の「行幸吉野宮」は434年の麥入即位の年だ。この吉野宮は御馬瀬の辺りの獵場近辺に在る吉野宮だ。地名は紀里のように、氏族によって持ち運ばれる。伊勢遺跡の傍、野洲に吉地神社、旧名日吉悪王寺社があり、大津には日吉大社、吉の地名があったようだ。

雄略四年の「一事主神」説話は大長谷若建が王位に就いて四年目の雄略元年457年の説話と考えられる。大長谷若建が大臣に就位して、事代の神、圓大臣の神から引き継いだ宣言なのだろう。葛木氏から平群氏に大臣の姓を取り戻した宣言で、それに続く雄略二年の吉野幸に続く。しかし、挿入場所が違ったため、大前大臣の吉野幸記事を続けたようだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿