2023年11月1日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 敏達天皇前紀

  敏達天皇は『舊事本紀』「帝皇本紀」に、歳次壬辰夏四月壬申朔甲戌の記述がある。572年に、「物部大市御狩連公為大連」と御狩が大連天皇になった記述だ。御狩は弓削連の祖の倭古連の娘の子の阿佐姫か加波流姫の子である。弓削連は室屋大臣、意乎巳連の末裔で、倭古連は稲目の可能性が高い。稲目の名前が建小広国押楯、天国押波流岐広庭、沼名倉太玉敷と名が違うのは、政権と共に役職名を変えたからと思われる。稲目は倭王で大臣、長女が継承する時は宮が同じで名が変わらない。欽明天皇は尾輿だったが、皇后は石比賣から岐多斯比賣に替わった。すなわち、阿佐姫から加波流姫に替り、稲目が皇位を奪取したということだ。

皇位継承は皇后の娘か皇后の兄弟の娘が継承し、皇后の娘に皇后の兄弟の男子が婿入りすることで継承される。欽明天皇は年若干と記述するように、2代目尾輿が早逝だった。それで、皇后阿佐姫と思われる日影皇女の子の2代目尾輿の弟が皇后の兄弟の石比賣の娘に婿入りしていた。そして、御狩が稲目の孫の豊御食炊屋比の婿になり、3代目稲目である。2代目尾輿の陵墓が古市にあり、大市御狩は「大市」と「市」で生まれた皇子である。

欽明天皇は即位時に「天國排開廣庭皇子卽天皇位時年若干」と20代で即位した。そして、欽明三一年、「朕承帝業若干年」と即位後、若干年しか経ていないと記述している。さらに、翌年の欽明三二年、「天皇遂崩于内寝時年若干」と20代の崩御と記述する。すなわち、初代敏達が「年若干」で崩じ、次代の2代目敏達はその弟となる。皇后が廣姫で、4年間、皇位を継承したが薨じたようだ。おそらく、571年時点では、渟中倉太玉敷は20歳未満だったのだろう。稲目(倭古)の娘婿の守屋が同じ宮で皇位を継承した。

皇位は『舊事本紀』推古天皇「年十八渟中倉太玉敷天皇立爲皇后卅四年渟中倉太玉敷天皇崩」と記述される。推古が34歳の時天皇が崩じ、592年のこと、推古天皇即位前年である。崇峻天皇までは蘇我氏が記述させた大臣の記録、『古事記』と同じである。用明・崇峻は大臣ということだ。推古天皇は渟中倉太玉敷天皇の皇后で、皇位を継承したと記述される。敏達五年に皇后になったのは、2代目の敏達天皇の皇后だったと思われる。本来、皇太子は実質天皇だ。推古天皇の娘の小墾田皇女の婿だから押坂日子人大兄が皇太子である。推古天皇の夫の天皇が崩じた時、太子が20歳未満だったので、推古天皇が即位した。皇位継承は皇后の長女が継承する。また、『上宮聖徳法王帝説』に記述されない、「菟道貝鮹皇女是嫁於東宮聖徳」の聖徳妃が「干食王后」だと思われる。

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