2023年11月6日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 敏達天皇2

  敏達七年三月戊辰朔壬申の「菟道皇女侍伊勢祠」で菟道皇女が神の朝廷の名目上の女王になった。神の朝廷は息長眞手王、麻組郎女、佐佐宜郎女、比呂比賣、菟道磯津貝皇女と継承された。豊御食炊屋比売の娘の菟道磯津貝皇女は聖徳太子の妃で、伊勢女王ではない。そして、「即奸池邊皇子事顯而解」と用明天皇の妃になり、用明天皇は名目上大臣となった。そして、池邊皇子の娘の須賀志呂古郎女が伊勢女王を継承した。用明天皇は『舊事本紀』用明天皇前年九月甲寅朔戊午に、「守屋連公爲大連亦爲大臣」とある。用明天皇は守屋大臣である。他田宮と池邊宮の天皇の2朝に分裂した。

敏達十三年に馬子は高麗惠便を探し、善信尼を弟子にした。大別の仏教はインドからの古型の仏教で、中国の新型の仏教と異なったようだ。東倭漢直駒に影響されて、寺を造って任せようとしたと思われる。そして、漢人夜菩の娘、錦織壼の娘、2人を付けた。年齢が記述されないので、解らないが、漢人は、俀国の錦織、筑紫の人物で、既に尼僧だった可能性が高い。太子の日子人の妃は漢王の妹、俀国王と思われる。俀国は次期国王が帰依した「日出處」の跏趺坐の天子、太子は上塔の上宮法皇である。首都には当然、釈迦三尊像を持つ寺が存在し、そこには僧侶や尼僧がいるだろう。鞍部村主の司馬達は釈迦三尊像を鞍首の司馬の止利、鞍首は鞍部の頭領、村主は村長、親子か兄弟だろう。司馬達の娘の嶋は馬子の子の嶋、漢人の娘の豐女も馬子の国と思われる豊国、錦織の娘の石女は石井と、それぞれ同郷なのだろうか。あまりにも偶然過ぎる。

三月丁巳朔は九州の暦で2月晦日の日干支である。585年、敏達十四年八月乙酉朔己亥「天皇病彌留崩」と敏達天皇が崩じた。『古事記』は大臣を記述して584年四月六日に崩じた。『舊事本記』は「卅四年渟中倉太玉敷天皇」、592年の崩御である。「天皇與大連卒患於瘡」、天皇と大連が、伝染病で死んだとある。朝廷は皇后廣姫が継承して、皇太弟の穴穂部皇子が「取天下」と記述される。しかし、九月甲寅朔戊午に守屋が皇位を奪取した。守屋も天然痘に罹患していたなら、「并燒佛像與佛殿」、「棄佛像」、「如中獵箭之雀烏焉」などできない。穴穂部皇子から分裂したと思われる。用明二年五月の「立穴穗部皇子爲天皇」は585年の記事なのだろう。

『舊事本記』の大連は572年に御狩、585年守屋、それ以降は、640年、推古廾二年まで代わらない。御狩死後、弓削倭古稲目の娘の子供たちの朝廷が続いたことを示している。それに対して、『古事記』の大臣の朝廷は、3代目稲目大臣が584年薨じた。初代稲目の孫の守屋が大臣、翌年に穴穂部皇子死後、守屋と長谷部若雀が分王朝を建てたのだろう。

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