2023年11月22日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇2

  三六年九月己巳朔は、日干支に該当する日が無く、598年の日干支と考えられる。推古5年、「卅九年當于泊瀨部天皇五年」と泊瀨部が殺された597年の年齢と間違えている。「便宜葬于竹田皇子之陵」と天皇が皇子の陵墓に埋葬は逆で奇異である。すなわち、馬子の子の後継者竹田皇子が597年推古5年に崩じた。翌年、馬子の陵墓に埋葬、そして、推古天皇も崩後、同じ陵墓に埋葬されたのではないだろうか。

馬子の実際の薨去年が『舊事本記』の推古5年の597年か、『日本書紀』の崇峻5年の592年か解らない。推古三二年の蘇我大臣が葛城縣の領有を求めた時、天皇が大臣を叔父と言っている。この天皇は豊御食炊屋比売では無く、記事も624年ではなく623年の記事である。『日本書紀』は法興帝の記事をもとに推古記事を記述して、混乱している。しかし、『日本書紀』が正しそうだ。『古事記』も592年壬子の崩だ。597年は竹田皇子の薨去だろうか。

三六年三月丁未朔戊申に「日有蝕盡之」と日蝕があるが、この表記では2日に日蝕があって天体異常だ。しかし、この朔の日干支は2月29日晦の日干支で、戊申が朔で正常な天体ショウーだ。しかも、この日蝕は畿内で観測されず、九州で観測できた。新旧の『唐書』に「貞觀二年三月戊申朔日有蝕之」と記述される。廿九年二月己丑朔癸巳の聖徳帝薨、三四年五月戊子朔丁未の「大臣薨」も正しい日干支である。すなわち、この頃の間違いの日干支は九州や任那の資料の日干支と考えられる。

卅二年四月丙午朔は31年4月1日朔、卅二年九月甲戌朔も31年9月1日朔で1年違う。十月癸卯朔も31年10月1日朔、卅三年正月壬申朔も32年1月1日朔と同じく違う。623年624年である。623年は癸未年、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』を作成した年である。王后即世日の二月廿一日癸酉の日干支は622年2月21日、聖徳帝の薨去日はその翌日である。それを、621年にしたために挿入が間違ってしまった。聖徳太子薨の法興32年(622年)記事を推古29年(621年)に挿入したために、間違った。法興帝が豊御食炊屋比売より1年後に薨じたのだろうか。

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