2023年11月17日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇前紀4

推古天皇の継承者を選ぶとき、豊浦大臣にとっての叔父が存在する。「大臣曰傳聞之叔父以田村皇子欲爲天皇」と記述する叔父は誰なのだろうか。『隅田八幡神社人物画像鏡』は「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念」と記述する。すなわち、癸未年の623年まで、太子日子人が生存し、その男弟王が存在する。斯麻は嶋大臣で、626年、推古三四年に薨じて、豊浦大臣の父の嶋大臣と日子人皇太子は義理の兄弟である。日子人皇太子が生きていればすんなり日子人天皇だが、太子不在である。そして、日子人は天皇になっていないから、日子人の皇太子自体が存在しない。事実上の秦王国の実力者は意柴沙加宮の男弟王で、甥の田村王を推した。当然だが、日子人の妃の庶妹の田村王は小治田王と考えられる。しかし、秦王国天皇は名目上の天皇で、実質は吉備嶋皇祖母と豊浦大臣が飛鳥岡本宮で統治した。『船王後墓誌』に「乎娑陀宮」の時に生まれ、「等由羅宮」、「於阿須迦宮」で「才異仕有功勲」と記述される。「阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月」と641年が飛鳥末年、智奴王が崩じた。わずか1年で崩じて、秦王国は完全に滅亡した。

『舊事本紀』の史書はここで終わるが、「天孫本紀」はまだ続く。皇極天皇は天智天皇が記述したのだから俀国の女王だ。倭国は吉備嶋皇祖母、嶋皇祖母が天皇で、大臣が統治したようだ。「天孫本紀」にはもう一人、大連が存在する。史書が続いていたら、「帝皇本紀」に続いて667年、天智六年三月辛酉朔己卯にこう記述するだろう。「遷都于近江」、恵佐古大連の子の豊日すなわち荒猪の弟の多都彦連が「淡海朝御世爲大連」と。すなわち、多都彦は天智朝の大皇弟になったと記述するのだろう。吉備姫の子の葛城皇子は萬豊日と考えられる。大海皇子は653年、白雉四年「遷于倭京」の時、天皇・皇太子・皇祖母・間人皇后・皇弟が揃っている。実際は白鳳4年、俀国が皇位を奪取した初代天皇の崩。皇弟は天皇の弟、皇太子の弟ではなく、天智天皇の時は大皇弟、先代の皇弟の古人太子の意味だ。

また、守屋大連の子の雄君という人物が存在する。「飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位」とある。世代から、飛鳥朝の綬号だろう。紫冠を授けられた人物は、「私授紫冠於子入鹿而」と「紫冠授中臣鎌足連」の二人だ。どちらも飛鳥浄御原宮の人物ではない。鎌足は、『家傳』「大師伝」に645年、白鳳五年に「故遷大紫冠進爵爲公」と「天萬豐日天皇已厭萬機登遐」後に授かった。すなわち、雄君は守屋の子の嶋大臣の家系の名で、643年、皇極二年に「私授紫冠於子入鹿」と大臣蝦()が授けた。642年、皇極元年に「天皇遷移於小墾田宮」と遷都した後である。飛鳥天皇死後も飛鳥に吉備嶋皇祖母が643年まで存在した。吉備嶋皇祖母が臥せっていたから、蝦夷が仮授した。654年、白雉五年、「以紫冠授中臣鎌足連」。これは665年の白鳳5年、鎌足だ。654年は鎌足18歳、不比等は659年生まれ、理に適う。

0 件のコメント:

コメントを投稿