2023年11月15日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇前紀2

640年まで大連天皇が存在しなかった。それまで、推古天皇は誰が後継したのだろうか。簡単である。推古三四年五月戊子朔丁未に、「大臣薨・・・家於飛鳥河之傍乃庭中開小池仍興小嶋於池中故時人曰嶋大臣」とある。舒明天皇時は飛鳥岡傍の岡本宮に首都がある。嶋大臣が生まれた宮殿であり、推古末には首都が飛鳥にあり、そこの皇后は飛鳥宮皇后である。そして、飛鳥宮には吉備嶋皇祖母が存在し、吉備嶋皇祖母は643年、皇極二年に「吉備嶋皇祖母命薨」と薨ずる。580年頃の生まれなら、576年18歳の推古天皇の娘に合致する。

600年頃豊浦宮で、嶋大臣田眼(豊浦)皇子の妃となったと思われる、吉備嶋皇祖母。皇祖母なので、舒明天皇の母だ。田眼皇女は「是嫁於息長足日廣額天皇」と記述する。息長足日廣額天皇は飛鳥天皇、豊浦皇子と考えられる。年齢から矛盾し、田眼皇女が石寸名、皇祖母天皇なのだろう。稲目大臣の娘ではなく馬子大臣の娘と考えられる。そして、皇祖母を継承した嶋皇祖母は664年、天智三年6月に「嶋皇祖母命薨」と薨じた。真の乙巳の変で薨じている。吉備嶋皇祖母の後継者、舒明前紀に記述する「蘇我蝦夷臣爲大臣」の蝦夷の妃が嶋皇祖母だろう。嶋皇祖母は贄古の娘の鎌媛大刀自だろう。贄古は厩戸豐聰耳、嶋大臣と同年代なので、嶋大臣の子の豊浦皇子の妃に適応する。そして、大臣は馬子、593年から嶋大臣、626年から豊浦大臣と継承された。

それに対して、640年即位と思われる岡本宮天皇は智奴王・恵佐古で大連天皇に即位した。皇極天皇は吉備姫と考えられる。すると、628年の推古崩から誰が継承したのだろうか。推古朝は豊浦から小墾田に遷都したので、小墾田天皇だ。『日本書紀』に「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と記述される。すなわち、彦人が娘婿の皇太子である。そして、『古事記』に「日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と記述する。しかし、太子の彦人は薨じ、子の若い2世麻伊古の崗本宮天皇が即位したと思われる。その後、日子人の子の2世麻伊古の弟の智奴王・恵佐古が640年に即位した。しかし、実権は、倭国の吉備嶋皇祖が手中にしたようで、飛鳥天皇と呼ばれる。

豐財天皇は「初適於橘豐日天皇之孫高向王」と高向王の妃である。高向漢人玄理とあるように高向王は漢王、子が漢皇子、東漢直の分家の聖徳王の子が高向王と考えられる。そして、智奴・恵佐古大連天皇の妃は吉備姫の皇極、高向王との子が漢王2代目皇極の斉明天皇である。智奴王も、聖徳帝の子の漢王高向王の妹の大俣王の子である。恵佐古の子の荒猪が「難波朝御世授大華上」、難波朝は蝦夷・入鹿の朝廷で、天萬豊日が榎井臣の祖の荒猪の可能性が高い。

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