用明天皇は『舊事本紀』「帝皇本紀」、用明天皇前年九月甲寅朔戊午に奇妙な記述がある。585年に、「物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」と守屋が大連天皇大臣になった。それ以降、推古廾二年夏六月丁卯朔己卯の「物部志佐古連公為大連」まで、大連天皇の記述が無い。578年、「菟道皇女侍伊勢祠即奸池邊皇子」と守屋は神の朝廷の名目上の女王菟道皇女を妃にした。女王の夫は大臣で、そのため、大臣の史書の『古事記』は守屋を沼名倉太玉敷、3代目稲目の後継者と記述した。馬子も大臣を継承しているので、馬子が倭国王、守屋が秦王国の分王朝の大臣なのだろう。通常、天皇なら大臣は不要だからである。
崇峻前紀に「蘇我大臣之妻是物部守屋大連之妹也」とある。『舊事本紀』では守屋の妹が布都姫夫人で、「倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人」と記述する。すなわち、倭国では天皇が皇太后や皇后や夫人で、大臣が最高責任者だったことが解る。敏達五年の「立豐御食炊屋姫尊爲皇后」は倭王馬子の皇后になったのである。馬子が薨じる592年に、御食炊屋姫「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩」と、馬子まで渟中倉太玉敷天皇だったと述べている。576年18歳で皇后なら、34歳は592年、崇峻5年にあたる。
実際の用明天皇は穴穗部間人皇后なので、皇后が587年、用明二年(四月)癸丑9日に崩じた。『古事記』は15日だが、暦が異なるのだろうか。用明二年五月、皇后の弟が「穴穗部皇子爲天皇」と即位する。『古事記』は「坐池邊宮治天下参歳」と三年在位になっている。敏達十四年八月に須賣伊呂杼が「穴穂部皇子欲取天下」とある。穴穗部皇子が天皇なら、三年在位で、室屋大臣が2年で辻褄はあう。実権は伊勢王の娘と思われる廣姫から、稲目の孫の泥部穴穗部皇女、皇太子泥部穴穗部皇子兄弟に遷っていたようだ。それで、用明前年九月甲寅朔戊午に「物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」と守屋の妃の穴穗部皇女が皇后になった。それで、守屋死後、太子の厩戸豐聰耳は成人していないので、穴穗部皇子が即位した。『上宮聖徳法王帝説』「聖王娶蘇我馬古叔尼大臣女子名刀自古郎女生児山代大兄王」とある。すなわち、厩戸豐聰耳の妃の刀自古郎女の父の「馬古叔尼大臣」が大臣を取り返した。そして、穴穗部の王朝は穴穗部死後、皇弟の泊瀬部が継承した。
秦王国の首都の主は間人穴太部(池邊)、御食炊屋(倉梯)、意富藝多志比賣(豊浦)、小治田(小墾田)、多米(豊浦)と稲目の娘や孫が継承した。それ以降、倭国は643年薨の吉備嶋や664年薨の嶋の皇祖母がそれを担う。
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