593年、推古元年四月庚午朔己卯の「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」は九州の暦である。俀王の東漢直駒が殺害され、法興帝の弟の漢直の聖徳帝が皇太弟になった。568年に太子になったのが「東漢直駒東漢直磐井子」と磐井の子の駒なのだろう。駒に譲位された子の法興帝が30年以上帝位に就いているので、即位年は若く、子が13歳以下なので、弟が太子になった。斉明朝に、東漢長直阿利麻、東漢草直足嶋と分岐した家系を記述し、天武期に東漢直等とある。東漢直は463年、雄略七年に興・東漢直掬が初出である。雄略期以前に漢直の祖と記述されるので、漢直祖阿知使主から始まる、本家の漢直が存在したと思われる。そして、東漢直は677年以降も、「小墾田御世至于近江朝常以謀・・・今以後若有犯者必入不赦之例」と存在した。
東漢直に代わって倭漢直が、その後記述される。俀国は隋外交に失敗したのが608年、法興18年に遣隋使の一行に学生の倭漢直福因が存在した。年齢から、日子人の妃の大俣王の兄の漢王は聖徳帝の子の倭漢直福因と思われる。さらに、聖徳帝の子と思われる高向王は倭漢直比羅夫、豐財重日の兄弟の漢皇子が倭漢直縣・萬豊日・筑紫君薩野馬と考えられる。そして、天武期に東漢直を許したのは、「不欲絶漢直之氏」と漢直に類が及ぶからだろう。その結果、「川内漢直・・・賜姓曰連」、「倭漢直等賜姓曰連」と九州と難波の漢直は認められた。皇室の直系なので当然である。そして、2代目豐財重日の小墾田天皇の子の、蘇我豊浦大臣の孫を妃にした天智が即位した。
推古元年春正月壬寅朔丙辰の「以佛舎利置于法興寺刹柱礎中」は、法興帝の事績だろう。『法隆寺金堂釈迦三尊像』はその法興寺に安置されたものを、法隆寺に移設したと考えられる。倭王が俀王の名を冠した寺を建立する謂れが無い。聖徳帝漢直は川内漢直と呼ぶように、川内に基盤を持ち、川内難波の荒陵に四天王寺建立も理に適う。年齢的にも廐戸皇子と同年代である。二年春二月丙寅朔の皇太子や大臣が「競造佛舎」の記事の大臣は嶋大臣、皇太子は小墾田皇太子日子人だろう。池辺宮は穴穗部間人皇后の薨と豐聰耳は子の山背大兄が推古末20歳程度、豊浦大臣より若いので、豐聰耳は嶋大臣より若い。守屋の子の豐聰耳は嶋大臣の皇弟で、倭国太子、日子人は秦王国太子だ。
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