2023年11月3日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 敏達天皇1

572年、敏達元年の「守屋大連爲大連如故以蘇我馬子宿禰爲大臣」は奇妙だ。「如故」ではなく、初出で、物部弓削守屋大連の初出は585年の敏達十四年である。おそらく、橘豊日は2代目稲目の死後、大臣を継承したが、守屋は、2代目尾輿(御狩)死後、物部氏の大連を継いだのだろう。そして、585年、用明前年九月甲寅朔戊午に「物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」と倭国と秦王国が決裂したのだろうか。592年、推古天皇が卅四の年、「渟中倉太玉敷天皇崩」と592年まで渟中倉太玉敷天皇が継続している。『隋書』には裴淸は秦王国に来ていて、608年まで秦王国が存在する。従って、「如故」は用明で初の天皇即位を受けての、崇峻の記事である。守屋大連天皇、馬子大臣で、すなわち、守屋秦王国天皇、馬子倭王、そして、守屋崩なのだろう。

敏達天皇の頃、中国は混乱の最中で、朝鮮は、「陳朝貢」、「北齊朝貢」、「周朝貢」の朝貢合戦だった。その朝貢先に秦王国もあったと思われる。敏達二年五月丙寅朔戊辰、七月乙丑朔は前月29日晦日の変換間違いだろう。漂流者は九州の那(珂川)の津に留め置かれる。敏達四年正月丙辰朔甲子も12月30日晦日の日干支で、倭国の暦である。575年敏達四年二月壬辰朔「馬子宿禰大臣還于京師」は574年の日干支である。その結果を受けた、十月戊子朔丙申に「遣蘇我馬子大臣・・・田部名籍授于白猪史膽津」なのだろう。575年、敏達四年の「遂營宮於譯語田」は「十一月皇后廣姫薨」で実権が尾輿の家系から、稲目の家系に完全に遷ったのだろう。息長氏の子の押坂日子人が息長足日廣額の父で、推古即位時は20歳以下である。『隅田八幡神社人物画像鏡』に、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時」と日子人が623年に存在する。推古帝の娘婿なので、合致する。すると、「廣姫薨」は592年崇峻五年十一月に「弑于天皇」と記述され、この時の説話かもしれない。論理的には、皇后が廣姫から豊御食炊屋比売に代わった時期と言える。

敏達五年三月己卯朔戊子の「豐御食炊屋姫尊爲皇后」は御狩の皇后ではない。推古天皇は「倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人字御井夫人」とあるように、布都姫夫人である。夫人は皇后と同等だ。御井夫人の夫は御狩の弟の贄古、「此連公異母妹御井夫人爲妻」と記述される。贄古は「小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」で小治田豐浦大連である。すなわち、小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連は2代目贄古、婿の日子人であろう。また、泊瀨部は「卅九年當于泊瀨部天皇五年」と597年にも生存しているので、馬子の2代目だ。592年11月に薨じた人物は大臣馬子か御井夫人の夫の贄古、恐らく二人共であろう。

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