2022年11月9日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』雄略天皇類書5

 『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「又一時天皇登幸葛城山之時百官人等悉給著紅紐()之青摺衣服彼時有其自所向之山尾登山上人既等天皇之鹵簿亦其装束(束装)之状及人衆相似不傾尓天皇望令問曰於茲倭國除吾亦無王今誰人如此而行即荅曰之状亦如天皇之命於是天皇大忿而矢刺百官人等悉矢刺尓其人等亦皆矢刺故天皇亦問曰然告其名尓各告名而彈矢於是荅曰吾先見問故吾()爲名告吾者雖悪事而一言雖善事而一言言離之神葛城之一言主之大神者也天皇於是惶畏而白恐我大神有宇都志意美者(自宇下五字以音也)不覺白而大御刀及弓矢始而脱百官人等所服之衣服以拝獻尓其一言主大神手打受其捧()物故天皇之還幸時其大神満山末於長谷山口送奉故是一言主之大神者彼時所顯也」、【又、ある時、天皇が葛城山に登っり、官僚等に紅い紐の青摺の衣服を与えた。その時、前方の山の尾根から、山に登る人がいた。それは天皇の行列のようで、亦、その装束の様子も、人数も、同じだった。それで天皇は望み見て、「この倭の国に、私を除いて王は居ないのに、今誰がこの様な行列を成している。」と問いかけたら、答える様子も天皇の様だった。それで天皇はとても怒って矢を向け、官僚等もみな矢を向けた。そこでその人達もまた皆、矢を向けた。それで、天皇は亦、「それなら名を告げろ。それぞれに名を告げて矢を弾とう。」と問いかけた。それに「私は先に問われたから、わたしが先に名を告げよう。私は悪事にも一言、善事にも一言、言ひ放つ神、葛城の一言主大神だ。」と答えた。天皇はこれに畏まって、「畏れ多い私の大神、現土地神が現れるとは知らなかった。」と言って、刀や弓矢から、家臣等が着た服を脱がさせて、拝礼して献上した。それでその一言主大神は、手を叩いてその捧げ物を受けとった。それで、天皇が還る時、その大神は、山末に満ちるように並んで長谷山の口で見送った。それで、この一言主大神は、この時から姿を現した。】と訳した。

「一言主」は『日本書紀』では「一事主」と記述され、「事代主」と同地域の神と思われ、「事代」は「社」と同じ概念で、社は野洲国の「野代」が語源と思われ、事代は事という地域の社と考えられ、事と呼ばれる地域は一事主が住む葛上で、事代主の家系の神武天皇と『日本書紀』は記述し、また、『古事記』では神武天皇が大物主の娘の家系としているが、大物主は大直根子の父で、大直田根子は大国を支配する根国の天子の意味で、河内に住んでいた。

そして、大国の支配者は大鹿嶋達五大夫が三国・大国・出雲朝廷を滅ぼして、大中彦が支配し、その後、大中彦から河内を支配した難波根子へと皇位が変遷し、祀ったのは当然大神なので、大物主神を祀った王家は仲国王だった中臣氏と考えられ、葛城氏の神武東征の時に協力したのが天種子、中臣氏を支配した大物主、すなわちこれが、根の天子の根子で出雲朝廷では大物主は仲国の国神であり、仲国の広島や讃岐などの琴平宮は大物主を祀っている。

『日本書紀』では神武の建国は高倉下と剱根に助けられて、皇位に就いたとするが、『古事記』は剱根を記述せず、『日本書紀』では、剱根が葛城国造となるが、その後、葛城に首都が遷るのだから葛城国は『日本書紀』で記述されず、その後は欽明朝に出現するのみで、『紀氏家牒』では「葛城国造荒田彦」、『舊事本紀』の雄略朝に葛城國(?)大臣が出現する。

葛城は316年「爲皇后定葛城部」と磐之媛の為に葛城部を定めたから葛城氏であり、葛城は荒田や葛と呼ばれていたと考えられ、長柄襲津彦の義父で剱根の子孫の国造の荒田彦の孫の磐之媛が葛城部を造ったので、葛城国は消滅して荒田国と呼ばれたと思われて、荒田国が復古して葛城国となった可能性が高く、そのため、長柄襲津彦が葛城襲津彦と呼ばれるようになったと思われる。

そして、葛城氏の初代の御毛沼は事代主の娘と婚姻することで事代主を事代で祀り始め、剱根(耜友)が磐余に岩根を敷き、「事代」の宮柱を建て、それが「こと」と呼ばれる土地と思われ、その為、仲哀天皇の首都が記述されず、急に神功皇后の首都が磐余若櫻宮と記述されたのは、仲哀天皇も磐余が首都の「琴彦(事彦)」、そして、若櫻宮が首都の「琴()宿祢」で、河内朝の視点では、磐余王は事主と呼ばれ、名目上幼武即位前なので、事主が「奉獻臣女韓媛與葛城宅七區」と葛城圓に祀られていて、その事主から幼武が譲られたと主張していると思われる。

すなわち、この説話は雄略天皇が纏向珠城宮天皇十千根 ・日代宮五琴彦・磐余若櫻宮五琴宿祢、そして、磐余若櫻宮を継いだ事代主の末裔の葛上の一事主のバックアップで『日本書紀』顕宗前紀「築立稚室葛根」と稚室葛根を築いて「結繩葛者此家長御壽之堅也」と宗廟を立てたことを述べている。


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