2022年11月16日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』清寧天皇2

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「冬十月己巳朔壬申大伴室屋大連率臣連奉璽於太子元年庚申春正月戊戌朔壬子命有司設壇塲於磐余甕栗陟天皇位遂定宮謂甕栗宮焉尊葛城朝韓媛為皇太夫人葛城國大臣妾也大伴室屋大連平群真鳥大連並如故臣連伴等各依軄位焉冬十月癸巳朔辛丑葬大泊瀨天皇於丹比高鶴原陵二年冬十一月依大嘗供奉之(?料 米+)遣播磨國使者山部連先祖伊予來目部小楯於赤石郡綜見長倉首忍海部造細目新室見市邊押磐皇子子億計雄計於思奉為君奉養甚謹以私供給使起柴宮權奉安置乗馳驛養奏天皇愕然驚歎良以愴懷曰懿哉悅哉天垂特愛賜以兩兒語在雄計天皇記三年春正月丙辰朔小楯尊奉億計雄計到攝津國使臣連持節以王青蓋車迎入宮中夏四月己丑朔辛卯以億計王為皇太子以雄計王爲皇子秋七月飯豊皇女於角刺宮與夫人褥交矣謂入但一知女道亦安可異終不願交於男矣五年春正月甲戌朔己丑天皇崩于宮六年(?五年)十一月庚午朔戊寅葬于河内板門原陵天皇無胤」、【冬十月己巳朔壬申、大伴室屋大連は、臣・連たちを率いて、皇位の璽を太子に渡した。治世元年春一月戊戌朔壬子、司に命じて、祭壇を磐余の甕栗に設け、即位した。宮を定め、甕栗宮といった。葛城韓媛を尊んで、皇太夫人とした。葛城円大臣の娘である。大伴室屋大連と平群真鳥大連を大連に任じることは元の通りだった。臣、連、伴造らも、それぞれもとの位のまま仕えた。冬十月癸巳朔辛丑、大泊瀨幼武天皇を丹比高鷲原陵に葬った。二年冬十一月、大嘗祭の供物を調えるため、播磨国に派遣した使者、山部連の祖・伊予来目部小楯が、赤石郡において縮見屯倉首の忍海部造細目の家の新築の宴で、市辺押磐皇子の子の億計、雄計を見出した。君としてあがめようと思い、謹んで養い、私財を供して柴宮を立てて、仮住いした。早馬を走らせ、天皇に知らせた。天皇は驚き、歎息してしばらく心から悼んでから。「めでたい、悦ばしい。天は大きな恵みを垂れて、二人の子を賜った」このことは、雄計天皇の記にある。三年春一月丙辰朔、小楯は億計・雄計を奉じて摂津国にきた。臣・連にしるしを持たせて、王の青蓋車に乗せ、宮中に迎え入れた。夏四月己丑朔辛卯に、億計王を皇太子とし、雄計王を皇子とした。秋七月、飯豊皇女が角刺宮で、はじめて男と交った。人に「人並みに女の道を知ったが、別に変わったこともない。今後は男と交わりたいとは思わない」と言った。五年春一月甲戌朔己丑に、天皇は宮で崩御された。冬十一月庚午朔戊寅に、河内の坂戸原陵に葬った。天皇に御子はいない。】と訳した。

冬十月己巳朔、元年庚申春正月戊戌朔、冬十月癸巳朔、三年春正月丙辰朔は正しい天文学的朔だが、夏四月己丑朔、五年春正月甲戌朔、六年十一月庚午朔は間違った朔で、『日本書紀』も清寧天皇三年九月以降間違った朔がほとんどで、神武東征の時の吉備以外は間違った朔だったことから、「武廣國押」の蘇我氏の資料が考えられる。

特に、 夏四月己丑朔は471年4月1日の日干支で、倭王「興」の遷都の可能性が高く、武の在位期間が長く、興の甥で、興の太子である弟が死亡したと思われ、『日本書紀』の清寧天皇三年の立太子記事も蘇我氏の勢力拡大に対して、倭の武が遷都した可能性がある。

なぜなら、順帝昇明二年478年に『宋書』に「詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」と『日本書紀』の「以白髮皇子爲皇太子」が一致し、『梁書』天監元年502年「鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」まで生存し、その後、磐井、その子の葛子に受け継がれ、欽明天皇十五年「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」で葛子の兄弟が継承している。

珍・斉・興が短期間での継承と武の長期在位なので、武は若い次期に即位した可能性が高く、武の皇太子が弟から武の子に変わったり、「自昔祖禰躬擐甲冑・・・欲大擧奄喪父兄使垂成之功不獲一簣・・・」と父王・兄太子が自ら戦い、自らの子も戦死した可能性があり、それが482年の「億計王爲皇太子」と494年の「立小泊瀬稚鷦鷯尊爲皇太子」との皇太子だけの宮変更と思われる。

また、皇位継承者の志毘の死亡によって、清寧天皇は襲津彦の孫の玉田宿禰の娘の毛媛の子の稚媛、羽田八代宿禰の娘の黒媛の娘の飯豐皇女、韓媛の娘の栲幡娘姫の存在のため、皇位継承に混乱を生じ、飯豐皇女を擁する羽田八代宿禰が勝利し、淡海朝が復権したようだ。


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