『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「十二月百官大會皇太子億計取天子之璽置於天子之座再拜從諸臣之位日此天子之位有功者可以處之著貴蒙迎皆弟之謀也以天下讓天皇天皇顧讓以弟莫敢即位又奉白髮天皇先欲待兄位立皇太子前後固辭曰日月出矣而爝火不息其於兄不亦難矣時雨降矣而猶浸灌不亦勞乎所謂貴為人弟者奉兄謀逃(?脱)難照徳解終而無處也即有處者非弟恭之義雄計不忍處也兄友弟恭不易之典聞諸古老安自獨輕也皇太子徳計曰白髮天皇以吾兄之故奉天下之事而先屬我我其羞之惟大王道建利遁聞之者歎息彩顕帝孫見之者殞涕惘々楯仲忻荷戴天之慶哀々黙首悅逢履地之恩足以克固四維永隆万葉功鄰造物清猷朕世起哉邈矣奥無得而禰雖是曰兄豈先處計非功而據咎悔必至吾聞天皇不可以久曠天命不可以謙拒大王以社稷為計百姓為心者發言慷慨至于流涕天皇於是知終不處不逆兄意乃聽而不即御坐世嘉其能以寶譲日冝哉兄弟怡々天下歸德篤於親族則民興仁矣」、【十二月、官僚が集った。億計皇太子は、天皇の璽を天皇の前に置いた。再拝して臣下の座について「この天位は、功のあった人が居るべきだ。尊い身分であることを明かして、迎え入れられたのはみな弟の考えによるものだ。」と言い、天下を天皇に譲り、天皇は弟だと、あえて即位しなかった。また、白髮天皇がまず兄に継がせようと思い、皇太子にしたのは、「太陽や月が昇って、灯りをつけておくと、その光はかえって災いとなるだろう。恵みの雨が降って、その後もなお水をそそぐと、無意味となる。人の弟として尊いのは、兄によく仕えて、兄が難をのがれられるように謀り、兄の徳を照らし、紛争を解決して、自分は表に立たないことにある。もし表に立つことがあれば、弟として恭敬の大義にそむくことになる。しかし、私は表に立つのは忍びない。兄が弟を愛し、弟が兄を敬うのは、常に変わらない摂理だ。私は古老からこう聞いている。どうしてみずから定めを軽んじられよう。」と何度も固く辞退した。億計皇太子が「白髮天皇は、私が兄だからと天下の事をまず私にとしたが、自分はそれを恥ずかしく思う。思えば大王がはじめに、たくみに逃れる道をたてたとき、それを聞くものはみな歎息した。帝の子孫であることを明らかにしたとき、見る者は恐懼のあまり涙を流した。心配に耐えなかった官僚は、天をともに頂く喜びを感じた。哀しんでいた人民は、喜んで大地をふんで生きる恩を感じた。これによって、よく四方の隅までも固めて、長く万代に国を栄えさせるだろう。その功績は天地の万物を創造した神に近く、清明な考えは、世を照らしている。その偉大さは何とも表現しがたい。だから、兄だからといって、先に即位できようか。功なく位にあると、咎めや悔いが必ずやってくる。天皇の位は長く空けてはならないと聞いている。天命は避け防ぐことはできない。大王は国家を経営し、人民のことをその心としてほしい」と言葉を述べ、激して涙を流した。天皇はそこに居まいと思ったが、兄の心に逆らえないと、ついに聞き入れた。けれどもまだ即位しなかった。世の人は、心から譲ったことを美しいこととして、「結構なことだ、兄弟が喜びやわらいで、天下は徳によっている。親族が仲睦まじいと、人民にも仁の心が盛んになるだろう」といった。】と訳した。
飯豊女王が即位出来たのは、2代目市邊忍齒別の妹が忍海(部)郎女とあるように、「赤石郡縮見屯倉首忍海部造」を配下にする、吉備上道臣の姻戚で、本来の若建の後継者は磐城皇子だったと考えられ、星川皇子の謀反を理由に磐城皇子も連座させられ、淡海に婿入りして宮を持っていた白髪が即位した。
子のない白髪が即位で来たのは、真鳥大臣が後見人だったからと思われ、真鳥の妃が飯豊女王だった可能性が高く、真鳥の後継者の鮪を殺害して飯豊女王の後継を姻戚の吉備上道臣の孫の磐城の孫の難波王(『日本書紀』は「丘稚子王之女」、『古事記』は子)を妃にした弘計が継承した。
億計は平群臣・和珥臣を背景に、和珥臣日觸の娘の伊勢の宮主糠君娘の娘の春日山田皇女の夫の麁鹿火の娘影媛を稚鷦鷯に迎えようとしたが、失敗して鮪を殺害することで皇位を得たが、麁鹿火を味方に出来ず、平群氏の後ろ盾を失い、巨勢氏に皇位を奪われたと思われる。
弘計も億計も皇后の実家の庇護、後ろ盾があって皇位に就けるのであり、麁鹿火は金橋宮の大連で、影媛の父ではなく列城宮の大連は麻佐良、広高宮の大連は木蓮子でそれらの娘でなくては後ろ盾とは言えず、『古事記』に記述されない、『日本書紀』でもどの皇后の妹か解らない日影媛が存在し、春日山田皇女の妹はその候補で、木蓮子と御太君の祖の娘の里媛、糠君娘が母なら皇位継承の後ろ盾として申し分ない。
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