2022年11月2日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』雄略天皇類書2

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「元年十一月壬子朔甲子天皇令有司設壇於泊瀨朝倉即天皇位還定謁宮焉二年丁酉春三月庚戌朔壬子草香幡援姬皇女立為皇后妃葛城國大臣女日韓媛誕生白髪武廣國押稚日本根子皇子尊與稚足姬女女次妃吉備上道臣女稚媛生二男長日磐城皇子少日星川稚宮皇子次妃春日和弭臣深目女曰童女君生春日大娘皇女乎平群真鳥臣為大臣以大伴連室屋物部連因為大連二十二年正月己酉朔以白髮皇子立為皇太子物部布都久留連公為大連二十三年已巳秋八月庚午朔丙子天皇疾弥甚與百僚辞訣並握手戲欷崩于大殿年百二十四歳御陵在河内之多治比髙鸇也天皇所生皇子男女兒白髮武廣國押稚日本根子皇子尊次稚足姫皇女伊勢太神侍祠」、【治世元年十一月壬子朔甲子、天皇は司に命じて、即位のための壇を泊瀬の朝倉に設け、皇位に即いた。宮を定めて、朝倉宮といった。二年丁酉の春三月庚戌朔壬子、草香幡梭姫皇女を立てて皇后とした。妃の葛城円大臣の娘を、韓媛という。白髪武広国押稚日本根子皇子と、稚足姫皇女とを生んだ。つぎの妃、吉備上道臣の娘の稚姫は、二男を生んだ。兄を磐城といい、弟を星川稚宮という。つぎの妃を、春日和珥臣深目の娘の童女君という。春日大娘を生んだ。平群真鳥臣を大臣とし、大伴連室屋と物部連目を大連とした。二十二年春正月己酉朔、白髪を皇太子とし、物部布都久留連を大連とした。二十三年己巳の秋八月庚午朔丙子、天皇は病が相当重く、百官と別れのことばを述べ、手を握って嘆き、大殿で崩じた。年百二十四歳。御陵は河内の多治比高鷲原にある。天皇が生んだ子は、三男二女。白髪武広国押稚日本根子、次に稚足皇女、伊勢大神に侍って祀った。次に磐城。次に星川。次に春日大娘。】と訳した。

二年丁酉の丁酉は元年で元年十一月壬子朔は安康三年の安康天皇死後で実質雄略元年で、『日本書紀』にも「十一月壬子朔甲子即位」としているが、『日本書紀』は河内朝の交代で、『舊事本紀』は近江・若櫻朝の交代を述べていると考えられる。

立太子記事が晦日が朔の記事に戻ってしまっているが、北魏の『魏書』や梁時代に記述された『南齊書』や唐時代は朔が朔日だが『梁書』は『日本書紀』と同じように朔が朔日と晦日が混在して、北朝は晦日が朔の暦が朝廷の暦で、南朝の朔日が朔の暦の資料を混在させていることが解る。

雄略「廿二年春正月己酉朔以白髮皇子爲皇太子」の立太子は478年に倭国の武が即位した事を意味し、珍・斉・興は親子相続で王朝が変わらず、首都が火国にあったが、武に変わって宮が482年、486年、494年に遷都したと思われ、武は『梁書』「天監元年鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」と502年までは生きていて「日国」を支配し、494年仁賢七年「立小泊瀬稚鷦鷯尊爲皇太子」で「筑紫國造磐井」と筑紫(糟屋)に遷都し、502年以降、子の磐井に王位が遷り、八女に墓があるので、磐井の乱で敗れて、その子の葛子が後を継いで八女に遷都したと考えられる。

武は478年即位すると「順帝昇明二年遣使上表」と宋に上表文を持たせて遣使し「六國諸軍事安東大將軍倭王」を任命され、翌年、斉に「六國諸軍事安東大將軍倭王」、502年、梁に「征東大將軍」と王朝が交代するたびに使節を送って叙位され、南朝の臣下と思っているので、北朝支配となった時、同等の立場と考えたと思われる。

そして、百濟との融和を求めた炤知麻立干に対し、479年炤知麻立干元年『三国遺事』、四・八・十五・十九・廿二年『三國史記』に倭が新羅を攻撃し、その後、新羅が百濟に助けを求めて講和し、倭の新羅攻撃が無くなり、磐井の倭国が日本と敵対すると、百濟と新羅は525年に聖王「三年春二月與新羅交聘」と講和した。

しかし、554年聖王三十二年「新羅伏兵發與戰」のように新羅と百濟はまた戦い、戦いが続いたが、百濟と同じく隋に朝貢する倭なのに、新羅に干渉せず、すなわち、それは倭が日本に敗れ、倭が分裂して、別れた俀国は自身が天子と主張して隋に断交され、臣下の百濟は同じ臣下の倭と同盟し、俀国は新羅と同盟、俀国と倭が同盟関係の為、倭の新羅侵攻が無かったと思われる。

『三國史記』の白村江敗戦後の「仁軌領我使者及百濟耽羅倭人四國使浮海西還以會祠泰山」の倭人、『舊唐書』「麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會」の倭の酋長は敗れた倭国王ではなく、クーデタで倭国王蘇我蝦夷・入鹿及び白村江の戦に参戦した薩野馬・天萬豊日を殺害した未承認の俀国王中宮天皇だったからで、中宮天皇も責任をとってすぐに退位し、国名も日本と変え、天智天皇は占領下の天皇として一生を終えたと推論した。

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