2022年10月31日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』雄略天皇類書1

  内容が前の2項と同じで、原文が長いので、検証後に記述する。

『日本書紀』は白彦と同じように黒彦も眉輪達より先に殺しているが、『古事記』は眉輪と圓の宮殿に籠城し、黒彦は黒媛の子の市邊押磐の黒という地域に住む後継人と思われ、『日本書紀』の天皇の河内茅渟宮天皇大日下の後継者の大日下の子の眉輪と皇太子の圓大臣と磐余若櫻宮妃黒媛と姻戚で市邊押磐の後見人の若櫻宮にいた黒彦が籠城したと思われる。

『日本書紀』の雄略紀は蘇我氏が、『古事記』の大長谷記は葛城氏が記述しているので、その二つの氏族の立ち位置によって、残虐な、もちろん、実際は仏教を取り入れ、文字を普及したが、両氏と敵対する大長谷天皇に対する頼りない黒彦と、圓と共に闘った黒彦なのだろう。

そして、これら河内王朝の皇位継承権を持つ人物を全員殺害したのが大泊瀨で、穴穂が「市邊押磐皇子傳國而遙付嘱後事」と遠飛鳥宮の皇位継承者の市邊押磐を河内朝の皇位継承者に指名した、すなわち、王朝統一を述べ、大泊瀨は市邊押磐を殺害し、王朝を統一して即位した。

これまで示したように、皇位は指名ではなく、システマティックに決まり、変更する時は殺害し、殺害されると、王朝交代となり、その時の都の神の象徴の皇后が皇位継承者を決めていて、渟川別に狹穗姫が皇后となることで狹穗彦が皇太子になり、殺されるとき狹穗姫が次の皇后を日葉酢媛と指名し、実質の天皇の皇太子が弟彦に遷った。

同様に、天皇大日下が死亡し、皇后中帯姫は穴穂の皇后となり、そして皇位を簒奪して皇后の夫になった穴穂が死亡し、後継者が死亡した時、若櫻宮の姫の忍坂大中姫の子の中帯姫が次の皇后に指名したのが若櫻宮の荑媛で、「市邊押磐皇子傳國而遙付嘱後事」で、荑媛が皇后なら市邊押磐が天皇で、男系天皇なら別王朝の市邊押磐が天皇など有り得ない。

すなわち、大国・仲国の河内茅渟宮天皇の中帯姫・大日下、稚国・倭国の遠飛鳥宮天皇の麦入・全能媛、そして、麦入の姉妹の若櫻宮天皇の後継女王の忍坂大中姫であり、その後継者の忍坂大中姫の子の中帯姫という関係で、近江朝の血統を持つ山君の姻戚となったと思われる若櫻宮の皇子の市邊押磐と河内朝の姫の荑媛夫婦を近江朝の流れを汲む中帯姫は後継にしようとしたようだ。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「諱大泊瀨幼武尊者雄朝嬬稚子宿祢天皇五男也天皇産而神光滿殿長而忱健過人三年八月穴穗天皇意將沐浴幸于山宮遂登樓号遊目因命酒号肆宴尓乃情盤樂極閒以言談顧謂皇后曰吾妹汝雖親昵朕畏眉輪眉輪王幼年遊戲樓下悉聞所語既而穴穗天皇枕皇后膝晝醉眠臥於是眉輪王伺其熟睡而刺弒是日大舍人驟言於天皇曰穴穗天皇為眉輪王見殺矣天皇大驚召猜兄等被甲帶刀率兵自將逼問八釣白彦皇子皇子見其欲害默坐不語天皇乃拔刀而斬更逼問坂合黒彦皇子皇子見其將害嘿坐不語天皇忿怒弥盛乃復并爲欲殺眉輪王案劔所由眉輪王曰臣不求天位唯報父仇而巳坂合黒彦皇子深恐(?)疑竊語眉輪王遂共得間而出逃入圓大臣宅天皇使大臣以報曰蓋聞人臣有事逃入王室未見君王隱匿臣舍方今坂合黒彦皇子與眉輪王深恃臣心來臣之舍詎忍送欤由是天皇復益興兵圓大臣宅大臣出立於(?庭索)腳帶時大臣妻持來腳帶愴矣傷懷而歌曰云々在別大臣裝束已了進軍門跪拜曰臣雖被戮莫敢聽命古人有言匹夫之志難可奪方屬乎臣伏願大王奉獻臣女韓媛與葛城宅七道請以贖罪矣天皇不許縱火燔宅於是大臣與黒彦皇子眉輪王俱被燔死時坂合部連贄宿祢抱皇子屍而見燔死其舍人收取所燒遂難擇骨盛之一棺合葬新漢擬南丘冬十月癸未朔天皇恨穴穗天皇曽欲以市邊押磐皇子傳國而遙付嘱後事乃使人於市邊押磐皇子陽期狹獵勸遊郊野曰近江狹々城山君韓餓(?)言今於近江來田綿蚊屋野豬鹿多有共戴角類枯樹末其聚腳如弱木株呼吸氣息似於朝霧願與皇子今冬作陰之月寒風肅然之晨將逍遙於郊野聊娛情以與射市邊押磐皇子乃隨馳獵於是大泊瀨天皇彎弓驟馬而陽呼曰豬有即射殺市邊押磐皇子皇子帳内佐伯部賣輪扼驟(?)不能所由及反側呼號往還頭腳天皇尚誅矣」、【諱は大泊瀬幼武尊で雄朝嬬稚子宿祢天皇の第五子で生まれたとき、神々しい光が御殿を満たした。成長してたくましさは人に抜きん出ていた。先の天皇の治世三年八月、穴穗は、湯浴みをしようと、山宮にでて、楼に登って眺め、酒を持ってこさせ、宴席についた。そして、くつろぎ楽しさが極まり、いろいろな話を語り、ひそかに皇后に「妻よ、あなたとは仲むつまじくしているが、私は眉輪を恐れている」と言った。眉輪王は幼く、楼の下でたわむれていて、すべての話を聞いてしまった。そのうち、穴穗は、皇后の膝を枕にして昼寝をしてしまい、眉輪は、熟睡しているところを伺って、刺し殺してしまった。すぐに、大舎人が走って、天皇に「穴穗が、眉輪王に殺された」と伝え、天皇は大変驚いて、自分の兄達を疑い、よろいをつけ、太刀を佩いて、兵を率いて、先頭に立って、八釣白彦を責め問いつめ、皇子は危害を加えられそうなので、ただ座って声も出せなかった。天皇は即座に刀を抜いて、斬ってしまった。また、坂合黒彦を問い責めて、また、害されそうなので、すわったまま黙っていた。天皇はますます怒り狂い、眉輪王と共に殺してしまおうと思い、仔細を問い詰めた。眉輪は「私は皇位を望んだのではない。ただ、父の仇を報いたかっただけだ」と言った。坂合黒彦皇子は疑われることを恐れて、ひそかに眉輪と語り、ついに隙をみて、円大臣の家に逃げこんだ。天皇は使いを出して、引き渡しを求め、大臣は使いを返して言った。「人臣が、事あるときに逃げて王宮に入るとは聞くが、いまだ君主が臣下の家に隠れるということを知らない。まさに今、坂合黒彦と眉輪は、深く私をたのみとして、私の家に来た。どうして強いて差し出すことができようか」と返答し、これで、天皇は、増兵して、大臣の家を囲んだ。大臣は庭に出て立ち、脚帯を求め、大臣の妻は脚帯を持ってきて、悲しみに心を傷め、歌って[云々と別書にある]。大臣は装束をつけ、軍門に進み出て拝礼して、「私は誅されようとも、命令を聞けません。古人の言う“賤しい男でもその志は奪えない”とは、まさに私にある。伏して願うのは、私の娘の韓媛と、葛城の領地七ヶ所を献上し、罪をあがなうことを聞きいれてほしい」と言った。天皇は許さないで、火をつけて家を焼き、大臣と黒彦、眉輪はともに焼き殺された。そのとき、坂合部連贄子宿祢は、黒彦の亡き骸を抱いて、ともに焼き殺された。その舎人たちは、焼けた遺体を取り収めたが、骨を選び分けられなかったので、ひとつの棺に入れて、新漢の擬本の南丘に合葬した。冬十月癸未朔、天皇は穴穗が、かつて、従兄弟の市辺押磐皇子に皇位を伝え、後をゆだねようと思ったことを恨み、人を市辺の押磐のもとへ送り、騙して狩りをしようと、野遊びを勧めて「近江の佐々城山君の韓袋がいうには、“今、近江の来田綿の蚊屋野に、猪や鹿がたくさんいる。その頂く角は枯れ木の枝のよう。その集まった脚は、灌木のようで、吐く息は朝霧のようだ”と言っている。できれば皇子と初冬の風があまり冷たくないときに、野に遊んでいささか楽しんで、巻狩りをしたい」と言った。市辺押磐は、勧めに従って、狩りに出かけ、このとき大泊瀬は、弓を構えて馬を走らせ、「猪がいる」と偽って、市辺押磐を射殺してしまった。皇子の舎人佐伯部売輪は、皇子の亡き骸を抱き、驚いてなすすべを知らなかった。叫び声をあげて、皇子の頭と脚の間を狼狽えたので殺した。】と訳した。

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