2022年10月19日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』允恭天皇類書4

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「輕太子畏而逃入大前小前宿祢大臣之家而備作兵器(尓時所作矢者銅其箭之内故号其矢謂輕箭也如本)穴穂王子亦作兵器(此王子所作之矢者即今時之夫()也此()謂穴穂箭也)於是穴穂御子興軍圍大前小前宿祢之家尓到其明()時零大氷雨故歌曰意富麻弊袁麻弊須久泥賀加那斗加宜加久余理許泥阿米多知夜米牟尓其大前小前宿祢舉手打膝儛訶那傳歌参來其歌曰美夜比登能阿由比能古須受淤知尓岐登美夜比登ゝ余牟佐斗毘登母由米此歌者宮人振也如此歌参歸白之我天皇之御子於伊呂兄王無()及兵若及兵者必人咲僕捕以貢進尓解兵退坐故大前小前宿祢捕其輕太子率参出以貢進其太子被捕歌曰阿麻陀手(布・牟)加流乃袁登賣伊多那加婆比登斯理奴倍志波佐能夜麻能波計()能斯多那岐尓那久又歌曰阿麻陀手()加流表()登賣志多多尓母尓()理泥弖登富礼加流表()登賣杼母故其輕太子者流於伊尓()湯也亦將流之時歌曰阿麻登夫登理母都加比曽多豆賀泥能岐許延牟登岐波和賀那斗波佐泥此三歌者天田振也又歌曰意富岐美表()斯麻尓波夫良波()布那阿麻理伊賀弊理許牟殿()和賀多々弥由米許登表()許曽多々美登伊波米和賀都麻波由米此歌者夷振之片()下也其衣通王獻歌其歌曰那都久佐能阿比泥能波麻能加岐賀()比尓阿斯布麻須那阿加斯弖杼富礼故後亦不堪戀慕而追往時歌曰岐美賀由岐氣那賀久那理奴夜麻多豆能()牟加閇表()由加牟麻都尓波麻多士(此云山多豆者是今造木者也)故追到之時待懐而歌曰許母理久能波都世能夜麻能意富袁尓波波多波理陀弖佐表()々尓波多波理陀弖意富表()()斯那加佐陀賣流淤母比豆麻阿波礼都久由美能許夜流許夜理母阿豆佐由美多弖理多弖理母能知母登理美流意母比豆麻阿波礼又歌曰許母理久能波都勢能賀波能賀()美都勢尓伊久比表()宇知斯毛都勢尓麻久比表()宇知伊久比尓波加賀美表()加氣麻久比尓波麻多麻表()加氣麻多麻那須阿賀母布伊毛加賀美那須阿賀母布都麻阿理登伊波婆許曽尓伊弊尓母由加米久尓表()母斯怒波米如此歌即共自死故此二歌者讀歌也」、【そこで輕太子はおそれて、大前小前宿禰の大臣の家に逃げて、軍備を整えた。その時に作った矢は、箭の中を銅にした。それで、その矢を輕箭と言った。穴穗も亦、軍備を整えた。この王子が作った矢は、即ち今風の矢だ。これを穴穗箭という。それで穴穗は、挙兵して大前小前宿禰の家を圍んだ。それでその門についた時、たくさん氷雨が降った。それで、歌()った。そこで大前小前宿禰は、手を挙げ膝を打って、舞って歌いながらやって来た。その歌()は宮人振だ。この様に歌いながらやって来て「天皇の子、兄王が挙兵したようだ。もし挙兵したのならきっとみなが笑う。私が捕えて差し上げよう。」と言った。それで兵を解いて退いた。そのため、大前小前宿禰は、輕太子を捕えて、遣って来て差し出した。太子は、捕えられて歌()った。又、歌()った。それで、輕太子は、伊余の湯に流した。又、流されようとした時歌()った。この三歌は天田振だ。又、歌()った。この歌は夷振の片下ろしだ。衣通王が、歌()を献上した。それで、後に亦、恋しく忍び難く、追っていった時、歌()った。それで、追いついた時、待ちこがれて歌()った。又、歌()った。このように歌って、共に自殺した。それで、この二歌は讀歌だ。】と訳した。

木梨之輕は大前小前大臣の家に逃げ込んだのだから、大前宿禰が忍坂大中姫の実家、大前宿禰の父麦入が遠飛鳥にいる天皇と考えられ、大前小前宿禰は本来、皇太子になる人物だったが、皇位継承者(実際は天皇)の首を差し出しているということは、もはや、皇位のバックボーンとしての力が無くなっていたことを示す。

平群氏は河内近辺に溜池や用水を多く造り、米の収穫量が大幅増産され、裕福になった財力で巨大な権力を持ち、穴穂はその権力と皇后の中帯姫を妃に迎えることが出来、皇位を継承できる財力と権威を持ったことを示し、すなわち、天皇よりも大きな権力を持った穴穂に天皇 皇太子を差し出さざる得ない状態に追い込まれた、皇位継承権を持つ大前小前大臣に、皇位継承を諦めさせた、そんな力を見せつけたことを示した。

阿直岐・・・菟道稚郎子師焉」が400年頃だったように、仁徳紀の菟道稚郎子の真実は反正朝から允恭朝の出来事で、菟道稚郎子は去來穗別・磐坂市邊押羽親子を重ねた人物だったと思われ、氏族によって同じ人物を別名に認識したので、この混乱を避けた「定賜天下之八十友緒氏姓」だった可能性があるが、この混乱は「大化」になっても「遂使父子易姓兄弟異宗夫婦更互殊名一家五分六割」と続いたようだ。


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