2022年10月12日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』允恭天皇類書2

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「元年歳次壬子冬十有二月妃忍坂大中姬命告群臣之憂吟而親執洗手水進于皇子前仍啓之曰大王辭而不即位位空之既經年月群臣百僚愁之不知所為願大至從群望強即帝位然皇子不欲聽而背居不言於是大中姬命惶之不知退而侍之經四五剋當于此時季冬之節風亦烈寒大中姬命所捧水溢而腕凝不堪寒以將死皇子顧之驚則扶起謂之曰副位重事不堪輙就是以於今不從然今群臣之請事理灼然何遂謝耶爰大中姬命仰歡則謂群卿曰皇子將聽群臣之請今當上天皇璽符於是群臣共爲天下請寡人寡人何聴遂辭乃即帝位矣二年春二月丙申朔巳酉忍坂大中姬立為皇后生兒木梨輕皇子名形大娘皇女境黒彦皇子穴穗天皇輕大娘皇女八釣白彦皇子大泊瀨稚武天皇但馬橘大姬皇女酒見皇女五年冬十一月甲戌朔甲申葬瑞齒別天皇于耳原陵二十三年三月甲午朔庚子木梨輕子立為太子以物部麥入宿祢物部大前宿祢並為大連四十二年春正月乙亥朔戊子天皇崩年七十八冬十月庚午朔已卯葬天皇於河内長野原陵天皇所生皇子五男四女 兒木梨輕太子尊次名形大娘皇女次境黒彦皇子次穴穗皇子尊次輕大娘皇女次八釣白彦皇子次大泊瀨稚武皇子尊 次但馬橘大娘皇女次酒見皇女」、【元年壬子の冬十二月、妃の忍坂大中姫命が、群臣が憂い嘆くので、浄めの水を手に取り、皇子の前に進み「大王は辞退して即位しません。空位のままだいぶ経った。官僚は憂え、なすすべがない。お願いですから、みなの願いどおり、強いて即位してください」と言った。しかし、皇子は聞き入れず、背を向けて何も言わず、大中姫は何もせず、退こうとみせずに侍つこと四、五刻以上経った。時期は冬で、風も烈しく寒かった。大中姫の差し出した鋺の水が、溢れて腕で凍るほどで、寒さに耐えられず死にそうであった。皇子は驚き、助け起こして「位は重要なこと。簡単に就けないので、今まで同意しなかったが群臣の願いももっともだ。いつまでも断れない」大中姫は上を見て喜び、みなに「皇子は、みなの願いを聞き入れた。いますぐ天皇の璽をささげよう。」と告げた。それで皇子は「みなは、天下のためと私に要請した。私がいつまでも断れない。」と言い、ついに即位した。二年春二月丙申朔巳酉、忍坂大中姫を皇后にした。皇后は、木梨軽、名形大娘、境黒彦、穴穂天皇、軽大娘、八釣白彦、大泊瀬幼武天皇、但馬橘大姫、酒見皇女を生んだ。五年冬十一月甲戌朔甲申、瑞齒別天皇を耳原陵に葬った。二十三年春三月甲午朔庚子、木梨軽皇子を太子にした。物部麦入宿祢と物部大前宿祢を、ともに大連とした。四十二年春一月乙亥朔戊子、天皇は崩じ、七十八歳だった。冬十月庚午朔已卯、天皇を河内の長野原陵に葬った。<以下略>】と訳した。

二十三年三月甲午朔は九州の暦で2月30日晦日だが、『続日本紀』に「太上天皇聖體不豫宗社盡祷珪幣相尋頻移晦朔」と治癒祈願で朔を朔日と晦とを替える風習があったと述べているように、新王朝が始まる時なので、同じ理由で「移晦朔」があった可能性がある。

この立太子は倭奴国が434年に王朝交代したことを意味し、『宋書』425年「太祖元嘉二年讃」と讃の王朝で、「讃死弟珍立」と434年に王朝交代があり、允恭紀にこれ以降立太子が無く、443年「二十年倭國王濟遣使」と珍と濟が親子なので王朝交代していないことを示している。

賛は『日本書紀』「倭漢直祖阿知使主其子都加使主」と都加使主の可能性が高く、都加使主は分家だったことが解り、阿知使主は長男と一緒に去來穗別の家庭教師として難波に常駐し、難波に宮殿をもっていた可能性があり、「市鹿文賜於火國造」と都加使主が火国造・火直で九州に分かれて住んでいた可能性がある。

賛は百濟とは『三国史記』403年阿莘王十二年「倭國使者至王迎勞之特厚」、405年腆支王元年「腆支在倭聞訃・・・倭王以兵士百人衛送」、409年五年「倭國遣使送夜明珠王優禮待之」、418年十四年「遣使倭國送白綿十匹」と良好な関係で、新羅には402年実聖尼師今元年「與倭国通好以奈勿王子未斯欣為質」と始めは良好だったが、405年四年夏四月、407年六年春三月、七年春二月(攻撃準備)、415年十四年八月、416年十五年夏四月、431年訥祇麻立干十五年夏四月に新羅を攻撃している。

訥祇麻立干の時に攻撃があいたのは『宋書』421年「永初二年倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」と中国に認められたからと考えられ、神功摂政2年「載微叱旱岐令逃於新羅」が418年訥祇麻立干2年「王弟未斯欣自倭國逃還」のことと考えられる。


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